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更新日:2023年1月5日

58.篠路の野に点在-馬頭観音

エピソード・北区

第8章:記念碑

58.篠路の野に点在59.道内馬産史に異彩を放つ60.篠路の野に脈打つ山岳信仰61.いまに息づく大師講62.北区に集中する五角柱63.世界初の人工雪

58.篠路の野に点在-開拓の苦難を今に語る-

馬頭観音

 

「明治28年」の文字が読める

篠路、拓北、屯田などには数多くの馬頭観音(ばとうかんのん)碑が建っている。馬頭観音──本来は3つの顔と8本の腕を持ち、宝冠の上に馬頭を載せていて、一切の魔性や煩悩(ぼんのう)を打ち払う仏である。馬産地では、この観音で馬の冥福を祈るようになった。しかし、現在の篠路では肝心の馬の姿をほとんど見ることがない。篠路と馬とのかかわり合い、馬頭観音碑建立の経緯を探ってみた。

馬も開拓功労者

安政5(1858)年、入植した農家、わずかに8戸。これを篠路のあけぼのと言うならば、明治15(1882)年「興産社」が設立され、その翌年から農場開墾に馬を用いたことが篠路と馬とのかかわりの始まりである。当時、篠路は延々と続く泥炭地。そのうえ度重なる石狩川のはんらんが村民を苦しめていた。とりわけ明治31(1898)年の水害は決定的な打撃を与える。多くの人は村を去り、離村さえ出来なかった人たちが土と自然との攻防を繰り返す。
現在からは想像も出来ない当時の生活を龍雲寺の丸山彦立(げんりゅう)さんはこう語る。「家とは名ばかり。部屋が1つですぐ馬小屋が続いていた。外気を遮るものはムシロ1枚。床はなく土の上に直接ワラを敷き、その上にムシロを敷くだけ。客が訪れると1枚しかないござを出しましてね。それが最高のもてなしでした。真冬でも暖をとるのは草炭。家中に炉の煙が充満して目が真っ赤にただれるんですよ」
しかし、自然の厳しさは人々に不屈の精神と知恵を授けた。泥炭地に適した牧草とエンバクを頼りに、水害に強い牧畜への転換を図る。また、泥炭地を耕すには力の強い馬が必要であり、これらが馬種改良への気運を高めた。人々は馬産に新たな活路を求め、熱く燃えてゆく。やがて篠路は、輓馬(ばんば)の王者ペルシュロン種の一級馬産地としてその名を全道にとどろかせることになる。
村民は苦節を共にし、開拓者の一員として頑張ってきた馬を家族同様に大切に思い、病気やけがで死んだりすると、愛馬への感謝と惜別の気持ちから馬頭観音碑を建てたのであろう。
馬追いで学ぶ開拓者精神
「馬は本当に利口な動物ですよ。初めて水田を整地したとき、13歳の私をばかにして動かない。何としても前へ進んでくれないんです。1日がそんな調子で終わってしまいました。別の日には馬が逃げ出し、捜しても見つからず、途方にくれて帰ってみると、ちゃんと戻っている。馬と共に苦労したあのころの方がなんぼか良かった。今は逆に機械に追われているよ」と坂東清寿さんはこう語る。
「馬は人を見る」と言われる。年端のいかない子供が簡単に扱える代物ではない。思いどおりに動かず苦労する。そして、そのうち、父親がこの動物を意のままに駆使して、広大な田畑を耕していることを心から偉大に思う。こうして幾代にもわたって開拓者の血が大地に脈打ってきたのである。

「篠路ペル」の減退

昭和30年代に入って、馬産の減退は避けられない現実となった。全道にその名を風靡(ふうび)した「篠路ペルシュロン」の数も、篠路では昭和32(1957)年は696頭、昭和40(1965)年には215頭、そして昭和50(1975)年にはわずか6頭と激減の一途をたどった。
夏草の茂る篠路のあちこちに点在する馬頭観音碑。今日その1つに黙とうをささげると幾千と知れぬ馬たちのいななきが聞こえてくる。

※本稿は「広報さっぽろ北区版昭和55年8月号」掲載『ママさん特派員だより』を基にまとめました。
(「広報さっぽろ北区版昭和55年8月号」掲載)

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