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44.本道産業史の一ページを飾る|45.荒地を開き藍を栽培|46.思い出の米作り五十年|47.肌のよさと柔らかさが身上|48.亜麻の名残は町名に|49.噴き出した太古の恵み|50.札幌でたった八人の漁師
沼んこ道であたりは野っ原
昭和18(1943)年ころの帝国製麻琴似製線工場=最後の工場長・黒川修策氏提供
麻生─「あさぶ」と読む。
現在1,400世帯、3,600余人が暮らしている麻生町。かつては亜麻工場の操業用地であった。麻生の名もこの亜麻に由来している。
明治7(1874)年、当時のロシア公使・榎本武揚が開拓使長官・黒田清隆にロシア産の亜麻種子を送ったのが本道の亜麻栽培の最初になったといわれている。
明治20(1887)年5月、後年の帝国製麻株式会社となる半官半民の亜麻会社が発足。現在の麻生町一帯の約8万坪(24万4千平方メートル)の地に製線工場を建設し明治23(1890)年に操業を開始した。
工場労働者の募集が行われたが、ちょうど新琴似に屯田兵が入植して3年が過ぎ、官給が切れて日用経費に困っていた時期に当たったので兵村からも多くの人が労働に参加したといわれている。
そのころの実情を「然(しか)も日給は当時としては高額の男1日35銭と言うのであるから、まことに開けた口に牡丹餅(ぼたもち)と言う訳であった」と『新琴似70年史』は記している。
明治後期、亜麻事業は全盛期を迎え隆盛を続けたが、昭和の20年代に入り原料のコスト高や化学繊維の激しい進出などで、工場は閉鎖の運命を余儀なくされた。
明治23(1890)年操業開始以来、68年、昭和32(1957)年10月のことである。
「新琴似を新住宅街に──道住宅公社では"新しい町づくり"として新琴似地区(旧帝麻跡地)にとくに力こぶを入れ立派な個人住宅街にする計画だという」(昭和33(1958)年4月9日付北海道新聞)
道住宅公社が取得した製麻工場跡地は、昭和32(1957)年から分譲を開始。まもなく全国でも屈指の"マンモス麻生団地"の誕生となる。
新琴似から分譲して麻生町ができた昭和35(1960)年からこの地に住む坂田真一さん(52)は「麻生町といっても周りは一面の野っ原と泥だらけの道路しかありませんでした。創成川だけが名残をとどめているだけですねえ」と回想する。
今、三角屋根の住宅が整然と軒を並べる麻生町に地下鉄南北線が開駅する日も間近である。
(「広報さっぽろ北区版昭和52年2月号」掲載)
※現在、約3,400世帯、約4,700人が暮らす麻生町。地下鉄麻生駅が昭和53(1978)年3月に開業し、北区北部や石狩へと人を運ぶ要地となっている。
(平成19年3月加筆)
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