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44.本道産業史の一ページを飾る|45.荒地を開き藍を栽培|46.思い出の米作り五十年|47.肌のよさと柔らかさが身上|48.亜麻の名残は町名に|49.噴き出した太古の恵み|50.札幌でたった八人の漁師
拓北用水路と当時の苦労をしのぶ宮西さん
篠路町拓北。区の北東部に位置し、北は茨戸川を境に石狩町と接している。面積は1,500ヘクタールあまり。地区の中央を横切る札沼線に東篠路、釜谷臼(かまやうす)などの駅があることからもその広さがわかろう。この釜谷臼駅北側、ちょうど拓北会館の横手に、雑草に埋もれるようにコンクリート造りの用水路と木造のポンプ小屋がある。今はもう水の走っていない水路は支線を入れると約10キロ。最盛期の昭和40(1965)年には、180ヘクタールの田に水を送り続け、33,000俵もの米を産出した。
この地で徳島県の入植者が開拓を始めて約100年になる。徳島が藍(あい)の特産地ということもあって藍栽培を中心とした農場「興産社」が設立されたが、のちに化学染料の進出によって不振となり、吉田善助の所有地となる。当初、善助は牧草作りを計画したが、多くの小作人が米作りを望んだため、造田を決意。
まず水を引くことが第一と、同志と資金を作り、水路の管理などを目的とした「土功組合」を大正13(1924)年に創設。旧石狩川から水路を設け、揚水場(ポンプ場)を併設して造田事業に取り組んだ。しかし、いざ水を送り込んでみると、田に水が届かない。泥炭を盛り上げただけの水路のため、水の圧力に耐えられずあちこちに穴があいた。まるでザルに水を注ぐようなものだったという。水路に木どいを作り、やっと完成したのは工事を始めて4年後の昭和4(1929)年である。
また揚水場にはドイツから輸入したディーゼルエンジンを据え付けた。ディーゼルエンジンは当時の世界最先端技術を駆使した機械。組み立てには、はるばるドイツから二人の技師がやってきた。うち一人は運転を始めてから1年くらいも駐在していたという。この地で米作りを続けた宮西頼母(みやにしたのも)さん(60)は「春先の忙しい時期に限って水路が壊れ、農家総出で水路修復に追われました。水害でポンプ小屋が埋まり、浸水の跡が今でも残っていますよ」と語る。
苦しい米作りの中での楽しみの一つは野天風呂。ディーゼルエンジンは水冷式で40度近くの温水を多量に排出したため、これを利用した野天風呂を共同で作った。農作業姿のままやって来て、湯につかり風呂上がりに酌み交わす焼酎(しょうちゅう)の味、まさに拓北のオアシスだったという。
やがて、土功組合は土地改良区と名称を変え、昭和50(1975)年には押し寄せる市街化の波と大型団地計画の決定により水田は姿を消した。約50年もの間、農家とともに歩んだこの水路。今後は憩いの水辺公園として、人々の目を楽しませてくれるはずである。
(「広報さっぽろ北区版昭和54年11月号」掲載)
※現在、この地域は「あいの里」という名の住宅地に変わっている。また、JR札沼線の東篠路は「拓北」に、釜谷臼は「あいの里公園」に改称されている。
(平成19年3月加筆)
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