札幌市民が語る、戦争の体験談をインタビュー映像で紹介しています。
昭和8年(1933年)生まれ。昭和20年(1945年)に父親を亡くし、母親と二人で働いて家計を支えた。
(令和5年度撮影)
昭和9年(1934年)生まれ。昭和16年に国民学校に入学し、昭和20年(1945年)の5年生の時に終戦を迎えた。
(令和5年度撮影)
昭和5年(1930年)生まれ。昭和19年(1944年)4月、横浜市の造船会社の工場へ学徒勤労動員。昭和20年(1945年)5月、横浜大空襲を目の当たりにする。同年8月に終戦を迎え、北海道
へ帰着。
(令和5年度撮影)
昭和15年(1940年)生まれ。爆心地から1.7㎞の地点にあった自宅で被爆。その後は父親の転勤で仙台市、富山市を経て札幌へ。平成29年(2017年)から、北海道各地を中心に、自身の被爆体験の語り部を始める。
(令和4年度撮影)
昭和3年(1928年)生まれ。昭和17年(1942年)に「満州」に渡り満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所に入所。終戦後は長春(当時の「満州国」首都・新京)で航空隊の兵舎に難民として収容されていた。
(令和4年度撮影)
大正11年(1922年)生まれ。昭和18年(1943年)に千葉陸軍高射学校入隊。B29偵察飛行に備えて防空任務に就く。昭和20年(1945年)の東京大空襲以降は、皇居の防空を担当していた。
(令和4年度撮影)
昭和15年(1940年)生まれ。5歳の時に広島で被爆し、半分崩れた家の下敷きになったが救出される。学校などで被爆体験を語る活動を行う。
(令和3年度撮影)
昭和8年(1933年)生まれ。12歳の時に、爆心から2キロ離れた場所で被爆。学校などで被爆体験を語る活動を行う。
(令和2年度撮影)
昭和10年(1935年)生まれ。当時の留辺蘂町で終戦を迎える。教員として長年戦争を教材として採り上げてきた。
(令和2年度撮影)
昭和12年(1937年)生まれ。昭和20年(1945年)1月に名古屋で空襲に遭い、母方の実家の長崎へ避難。同年8月9日に長崎で原爆を体験。
(令和元年度撮影)
昭和6年(1931年)札幌市生まれ。昭和20年(1945年)7月、自宅で空襲(手稲空襲)を体験。
(令和元年度撮影)
昭和4年(1929年)福島県生まれ。官立無線電信講習所仙台支所を卒業。通信兵として広島市の暁部隊通信隊に入隊。広島市内の比治山で被爆。
(平成30年度撮影)
昭和2年(1927年)札幌市生まれ。北海道庁立札幌第一中学校(現・札幌南高等学校)在学時に海軍に志願。土浦海軍航空隊に所属。秋田県大野村(現・北秋田市)で終戦を迎えて復員。
(平成30年度撮影)
昭和10年(1935年)東京都生まれ。アジア太平洋戦争開戦時は小山国民学校1年生。昭和19年(1944年)8月 静岡県伊東市へ学童集団疎開。
(平成29年度撮影)
昭和4年(1929年)小樽市生まれ。中学校に入学後、蘭越、幌延で勤労奉仕、芦別で援農を行う。
(平成28年度撮影)
昭和4年(1929年)樺太で生まれる。12歳の時に太平洋戦争が始まる。
(平成24年度撮影)
大正14年(1925年)、丘珠町で生まれる。昭和19年(1944年)に丘珠飛行場の女子職員として採用される。
(平成24年度撮影)
昭和16年(1941年)、旭川の部隊で訓練後、翌年に中国武漢に出征。山砲兵として中国を転戦する。
(平成23年度撮影)
京都府舞鶴市生まれ。昭和14年(1939年)に朝鮮羅津府へ移住。昭和20年(1945年)、元山避難民収容所へ収容される。
(平成23年度撮影)
昭和17年(1942年)に中国武漢地区に出征。衛生兵として従軍。
敵機との戦闘など、3度の生死を決めた出来事に遭遇。
(平成22年度撮影)
昭和18年(1943年)、札幌から東京医学歯学専門学校に入学するため東京都に移住。昭和20年(1945年)の東京大空襲を経験する。
(平成22年度撮影)
昭和13年(1938年)、開拓青少年義勇隊に入隊して満州へ。昭和20年(1945年)の終戦後、過酷なシベリア抑留生活を体験。
(平成22年度撮影)
戦争体験談、更新予定。