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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第9章:文化の薫り > 71.道内芸術家の第一号-林竹治郎

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更新日:2023年1月5日

71.道内芸術家の第一号-林竹治郎

エピソード・北区

第9章:文化の薫り

64.開拓農民の手で華々しく65.手作りの回り舞台で66.明治から続く伝統行事67.漂泊の札幌二週間68."幾山河越え"新琴似へ69.生き続ける文豪の家70.北のロマン漂う青春讃歌71.道内芸術家の第一号

71.道内芸術家の第一号-「朝の祈り」は語る-

林竹治郎

 

「朝の祈り」

林竹治郎はすぐれた絵画教師であっただけでなく、北海道美術界の基礎を築いた長老としても大きな仕事を残している。
北海道に近代美術館が普及するのは、明治時代後期からであるが、竹治郎はまさにその夜明けの時に来道した。

作品「朝の祈り」

明治40(1907)年10月、竹治郎は「朝の祈り」を文部省第1回美術展覧会に出品し、見事、難関を突破し入選した。来札して6年目の明治39(1906)年に制作されたもので、彼が35歳の時の作品である。
竹治郎について語るには、この「朝の祈り」を切り離すことはできない。
作品は一見、出征軍人の留守家族を思わせ、敬虔(けいけん)な祈りの姿が、主のいない空間と相まって一層の物悲しさを感じさせている。だが、これは林竹治郎一家がモデルになっている。作品では、真中に居るべきはずの竹治郎に代わり、当時林宅に下宿していた学生がモデルになっている。
「朝の祈り」には、制作の元になっている“写真”と“下絵”が残されている。写真には学生ではなく竹治郎自身が居り、下絵にはストーブや壁に掛かった着物などが描かれ、作品のように空間が簡素化されていない。また、両者には登場しない作品中の猫は、画中の皆が一つに集中し過ぎるから、横を向いているものが要るとの評で書き加えられたものといわれる。
林竹治郎は明治4(1871)年、宮城県に生まれ、仙台の師範学校へ入学、18歳の時、その地で洗礼を受けキリスト教の信徒となった。明治22(1889)年東京美術学校へ入学、明治25(1892)年同校の特別課程を卒業し、明治31(1898)年9月北海道師範学校(現・教育大)教諭に奉職したが、2年後退職。札幌中学校(一中・現南高)の教諭に転じて28年間、引き続き藤高等女学校で14年間教鞭(きょうべん)を執った。なお、この間、北星女学校、札幌第二中学校(二中・現西高)でも教壇に立っている。

17条の茶の間

竹治郎は北17条西4丁目(現マンションニューエルム)に居を構え、大正10(1921)年には借地であった土地134坪を買い求め、そこで人生の大半を過ごしている。
当時、この辺りは札幌の街はずれで、「北17条の家には庭があってアヒルが時々鳴いていた事、垣根には春は山吹き、秋は萩の花が咲いていた事を覚えている」と下宿していた学生は語っている。
札幌中学校は北10条西4丁目に在り、7丁ほど北へ上ったこの林宅には少なくとも7~8人多い時には十数人の一中生が下宿していた。
向かいの下宿屋の2階には、後に美術界の巨匠となる三岸好太郎が住んでおり、足しげく竹治郎のもとに通い教えを受けた一人と言われている。
家族にとって、また、下宿していた学生にとって、林家の座敷兼アトリエであった“17条の茶の間”は特に思い出深い部屋であったようだ。そして「朝の祈り」も、林家の象徴のように何十年間もこの部屋の壁に掲げられていたのである。
この部屋の様子を伝える、学生の回想文がある。
「林先生の伝道者としての真骨頂はその家庭礼拝であった。家族、生徒と共に、朝は祈祷(きとう)、聖書朗読、賛美歌合唱、夕は更に説教が入り時間も長くなった。足はしびれる、おなかはすく、初めから信仰を求めて来たのではない生徒にとっては一日も欠かさない家庭礼拝は恐ろしく退屈であり、先生の家庭が窮屈に感ぜられた。先生は委細構わず家庭礼拝を守り続けた。生徒の方は足よりもおなかよりももっと困ったのは時々お祈りをさせられることであった。先生の一家は早く信者になったが生徒の方は成果が上がらなかった。上級になると口実を設けて他の下宿屋に移ったり親戚の家に避難したりした。しかし、洗礼を受けて信者になる生徒があった時の先生の顔は満足の笑みにあふれ、感謝の祈祷は何時もよりさらに長かった」。

告別展を開催

昭和14(1939)年4月22日から3日間、札幌マルイ百貨店で個展が開催された。竹治郎は、1年前に発病した左眼を手術、それが動機となり、札幌40年の生活に名残を惜しみつつ、医者である息子文雄の住む鹿児島の病院官舎に身を寄せることになった、そのお別れの展覧会だった。
「朝の祈り」も出品された。もちろん、売る気はなく会場をにぎわすためのものだったが、売約第1号で既に4人の買い手がつき、その一人の医者の手に渡ってしまった。鹿児島の子息はこれを知って「アサノイノリウルナタノムフミオ」と電報を打ったが、「ウレタマタカクチチ」と折り返し竹治郎は打電している。
そして3日間、71点の総売上金、2,090円は息子の勤めるハンセン病院に寄贈された。鹿児島の家に落ち着くや「写真で満足です」と止める子息の言葉を耳に貸さず、50号のキャンバスに挑む日々が続いた。
この作品の完成後、さらに、たっての懇望で茅ヶ崎町(現在の茅ヶ崎市)と満州に住む人に「朝の祈り」の複製が描かれている。
昭和14(1939)年、鹿児島の子息のもとに身を寄せた時、竹治郎は70歳に達しており、わずか2年後に昇天した。
なお、「朝の祈り」は、北1条教会の十数人の信徒が絵を買い取り、昭和42(1967)年北海道立美術館に贈られた。
現在は、北海道立近代美術館に所蔵されている。

(「続・北区エピソード史(昭和62年3月発行)」掲載)

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