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更新日:2023年1月6日

手稲のまちの案内板

区内各地域の歴史や特色を紹介します。

 手稲本町(ていねほんちょう)

手稲本町は、いつごろ開けたのか定かではありませんが、明治4年に隣接の稲穂地区に4・5戸の移住者があったこと、同年に隣接の富丘地区に開拓使がサンタロペツ通行屋を設けていたことから、明治の初めから開けていたと考えられます。

明治13年に鉄道が開通し、14年には軽川(がるがわ)駅ができるなど、古くから交通の要所として栄え、昭和17年の字名改正まで軽川と呼ばれていました。

手稲の顔の一つであるJR手稲駅は平成14年5月に新駅舎が完成。同時に南北の駅前広場を結ぶ自由通路も完成し、「あいくる」という愛称が付けられました。また、南口ロータリーは、色とりどりの花で彩られ、手稲の玄関口として訪れる人々をやさしく迎えています。

この手稲本町地区では商店街を会場に「がる川どじょうまつり」や「手稲はしご酒大会」などのイベントも行われ、にぎわいを見せています。

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 曙(あけぼの)

曙は、「将来ほのぼのと明けていくように」という願いを込めて名付けられた地名です。

この地が発展していく基礎となったのは、難工事の末、大正14年に完成した土功(どこう)排水でした。この排水路のおかげで、泥炭で水はけの悪かった土地が農場になりました。現在、農場は住宅地や福祉施設などに、排水路は環境護岸を施した手稲土功川に生まれ変わっています。

JR手稲駅北口から樽川通に向けて延びる手稲緑道「ぷろむなーど・ていね」や、手稲土功川沿いは、散策路として多くの人に親しまれています。

また、曙2条1丁目には手稲曙温水プール、老人福祉センター、図書館、体育館があり、多くの市民に利用されています。

JR線沿線には、「札幌手稲工業団地」があり、金属加工や機械製作など多くの工場が稼働しています。

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 明日風(あすかぜ)

明日風は、山口地区と曙地区の一部が土地区画整理事業によって開発され、平成19年10月1日に誕生した新しいまちです。

「先人の築いた歴史を礎(いしずえ)に、手稲山の風に乗り、明日に向かって飛躍するまち、明日風のまちをつくりたい」という願いから「明日風」と名付けられました。

平成22年にオープンした明日風公園は、地域の人々との意見交換を経て造成された公園で、幼児や児童の遊戯広場、テニスコート、パークゴルフ場などがあり、地域の憩いと交流の場となっています。

明日風は、若い世代の多い新興住宅街であり、子どもたちの声が響き渡る活気にあふれたまちです。

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 前田(まえだ)

前田は明治28年、旧加賀藩主・前田利嗣(としつぐ)侯が「前田農場」を創立したのが始まりです。

この農場は、新川大排水(現在の新川)とこれにつながる中小の排水路の建設によって次第に農耕地が広がっていきました。

前田農場の成功に力を得て、明治農場、興農園(後の極東農場)などの農場もできました。前田農場を皇太子(後の大正天皇)が訪れたことを記念した「東宮駐輦記碑」が、平成25年10月に前田公園へ移設され、当時の歴史を後世に伝えています。

また、大正11年から約10年間、軽石(けいせき)軌道株式会社の馬車鉄道(馬鉄)があり、現在の道道石狩手稲線を通って軽川・花畔(ばんなぐろ)間を人や荷物を乗せて運んでいました。地域名称として前田が定められたのは昭和17年4月です。

現在は、区内最大の前田森林公園など、公園・緑地も多く、春には軽川の桜づつみが地域の人々を楽しませています。

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 稲積(いなづみ)

稲積は、前田農場の成功に力を得て、小樽の稲積豊次郎氏が始めた稲積農場が始まりです。

この農場では排水路から水を引いてでんぷん工場を経営したり、飼料作物や水稲なども栽培していました。

昭和49年から行われたていね稲積土地区画整理事業による宅地化が進んでから住宅地として発展しました。また、川に囲まれた中州に立地しており、軽川や中の川は桜づつみモデル事業として整備され、毎年5月には美しい桜の花で彩られます。

手稲山の風景を眺めることができる手稲稲積公園は、「ていねプール」や野球場、テニスコートがあり、スポーツの拠点として区民に親しまれています。

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 新発寒(しんはっさむ)

新発寒は、平成元年の西区からの分区前は「発寒」という地名で、安政4年に在住武士が稲荷街道の両側(現在の発寒神社周辺)に移住したのが始まりです。

その後は、農地や酪農地が広がり、ワラビが群生する地区でしたが、昭和42年の札幌市と手稲町との合併のころから鉄工団地や木工団地、発寒住宅団地の造成等が進められました。

手稲山を仰ぎ、春には桜づつみが美しい中の川と旧中の川が流れる景観豊かな新発寒は、道路の拡幅工事などが進められ、快適な住宅地になっています。

また、町内会対抗の小学生「綱引き大会」、「雪に親しむつどい」などのイベントが盛んで、これらで培った一体感や団結力を基盤に、心豊かで潤いのある新発寒を目指して、高齢者の見守りや子どもを守り、育てる活動に取り組んでいます。

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 富丘(とみおか)

富丘は開拓当初から札幌と小樽の中継点として重要視され、明治4年、開拓使がサンタロペツ通行屋を設け、札幌本府を往来する役人や旅人たちの休憩所・宿泊所として栄えました。

稲作や酪農のほか綿羊や養狐場、石材業なども営まれていました。稲作では「はさがけ」という独自の乾燥方法で稲を乾かしたり、綿羊は羊毛としてだけではなくジンギスカン料理用としても研究され、食用に飼われたりしていました。

桜並木で有名だった光風館温泉とそこに続く北海道で初めての石畳道路、丸山スキー場とジャンプ台、自生スズラン群生地がありました。スズランは、現在でも富丘西公園で、5月下旬から6月初旬にかけて観察することができます。

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 西宮の沢(にしみやのさわ)

西宮の沢は、分区前は「宮の沢」という地名でした。宮の沢は、明治5年に上手稲に移住してきた仙台白石藩の武士たちが開拓したのが始まりで、平成元年の西区からの分区に伴い西宮の沢という地名のもとで、新たな歴史が始まりました。

昭和42年の札幌市と手稲町との合併を契機に、国道5号沿いを中心に木工・鉄工・自動車整備・食品製造・印刷等の工場や会社、市営住宅や雇用促進住宅などのアパート、戸建住宅などが建設され、開発が進みました。土地区画整理事業や都市計画道路二十四軒手稲通の開通などにより、現在は整然とした街並みが広がっています。

また、西宮の沢では冬の風物詩として、たくさんの手づくりアイスキャンドルでまちを彩る「アイスキャンドル大作戦in西宮の沢」を開催し、子どもたちの心に残るふるさとづくりに取り組んでいます。

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 稲穂(いなほ)

稲穂は、明治4年ごろ最初の開拓使が入植したのが始まりです。開拓当時は、うっそうとした原始林が広がっていました。

手稲北部一帯は泥炭湿地の不毛地帯でしたが、稲穂だけは稲作が可能な地でした。それでも、手稲山から急勾配で流れる河川の犠牲となり、一夜で泥田と化したこともありました。

大正から昭和14、15年ごろまでは、星置地区とともに大根の産地として知られました。

もともと星置の一部であったこの地は、稲の穂がたわわに実ることを夢見て、開墾に全力を傾けた先祖の苦労をしのんで稲穂と名付けられました。

現在は宅地化が進み住宅街が広がる中、稲穂ひだまり公園には市内でも珍しくカタクリが群生しており、4月下旬から5月上旬には薄紫から桃色のかれんな花を咲かせ、訪れる人の目を楽しませています。

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 金山(かなやま)

金山は、「手稲鉱山」の繁栄とともに築かれたまちです。この地は、もともと星置の一部でしたが、星置川で砂金が見つかったことなどから、金の山、きんざんと呼ばれるようになり、昭和17年の字名改正の時に正式に金山(かなやま)と名付けられました。

手稲鉱山は、明治24年に鳥谷部弥平治(とりやべやへいじ)が偶然金鉱を発見し、昭和10年、三菱鉱業が本格的に金の採取を開始。

最盛期には、東洋一の選鉱場、鉱山ケーブル、滝の沢温泉(現在のイムス札幌内科リハビリテーション病院付近)、星置小学校(現在の手稲西小学校)、劇場などがあり、人口は8,000人以上も居たといわれ、そのにぎわいは鉱山が経営を縮小する昭和20年ごろまで続きました。

現在金山は、手稲山山麓の自然豊かな環境に恵まれた住宅地に変貌しましたが、手稲鉱山の歴史は、手稲西小学校の「鉱山の部屋」や星置川沿いの鉱道の入口跡、住宅の土台などで知ることができます。

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 星置(ほしおき)

星置は、明治17年に広島県人が移住してきたのが始まりです。

小樽と札幌を結ぶ交通の要所だった星置は、星置越道路、軍用道路など陸路が発達していました。

冬になるまでは、木を切り倒し抜根する作業をし、冬には、つまご(冬に履くわらじ)作りや浜での魚捕りをしながら、開墾に励みました。こうして明治29年ごろに稲作が始められました。

大正から昭和14、15年ごろまでは、稲穂地区とともに大根の産地として知られていました。

湿地帯の克服と水上輸送のために掘削された山口運河は、水に親しめる川辺の整備がなされており、毎年秋には開拓の歴史を伝えるため「手稲山口運河まつり」が開催されています。

自然も豊かで、毎年春の訪れとともに星置緑地の湿地からミズバショウが顔を出し、星観(ほしみ)緑地ではエゾヤマザクラなど950本のサクラを楽しむことができます。

また、秋には星置川や濁川に100匹を超えるサケが遡上(そじょう)します。

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 山口(やまぐち)

山口は、明治14年、山口県人宮崎源次右ヱ門らが、星置に山口村を開いたのが始まりです。

明治15年~16年にかけてトノサマバッタが襲来して大きな被害を受けました。この時のバッタの死骸と卵を埋めた畝(うね)状の塚が、現在は手稲山口バッタ塚として札幌市指定の文化財になっています。

そんな苦労の中、大正5年ごろから砂地を生かした山口スイカ(現在のサッポロスイカ)の試作栽培が始まり、大正7年から販売を始めると、糖度が高くて味が良いと評判になりました。

しかし、昭和55年の大冷害によってスイカが大きな打撃を被ったため、これを機に、冷害に強くてスイカ作りのノウハウをそのまま生かせるカボチャの栽培が始められました。

こうして手稲のカボチャとして有名な「大浜みやこ」が誕生。味わいの深さが全国的にも高い評価を得ています。

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