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ホーム > まちづくり・地域の活動 > 旧国道36号歴史記録映像 > テキスト版「きよっち」と「きよじい」の清田探検

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更新日:2017年9月19日

テキスト版「きよっち」と「きよじい」の清田探検~旧国道の秘密~

旧国道36号歴史記録映像「『きよっち』と『きよじい』の清田探検~旧国道の秘密~」のテキスト版をご覧いただけます。映像内のナレーション等をテキスト化しました。

本編

【前編】

オープニング

(きよじい)
昔々、清田(きよた)に初めて道がつくられたのは、わしがまだ北海道へ移り住む前、1857年の江戸時代のことじゃった。

この絵本には清田の昔の道が描かれている。それでは、次のページをめくって道のある風景を見てみようか。

おお、そういえば、きよっちに探しモノを頼もうと思っていたんじゃ。見ておきたいものがあったんだけど、それが何だったのか思い出せないんじゃ。わしももう年だ。きよっち、清田のまちでそれを探し出してくれんか。

厚別川

これは清田を流れる厚別川(あつべつがわ)の上流じゃ。アイヌの人たちは、この川をあしりべつ川と呼んでいた。これがもとになって、清田は「あしりべつ」と言われていたのじゃった。

松前蝦夷地嶋図

これは江戸時代の地図。あしりべつと言われる前は、アシユシヘツと呼ばれていた。この時代に住んでいたアイヌの人たちは、鹿とかが通った跡を踏み固めて道として使っていたようじゃ。

札幌越新道

あしりべつに人の手で初めてつくられた道が札幌越新道(さっぽろごえしんどう)、江戸時代の終わり1857年というから、今から150年以上も前の話じゃ。

当時の松前藩(まつまえはん)から、石狩(いしかり)の漁業などを任されていた場所請負人(ばしょうけおいにん)と呼ばれる人が、魚を運ぶために、小樽(おたる)から島松(しままつ)まで自分のお金で道をつくった。それがこの道じゃった。この道は草木を刈った道で、幅は4メートルほど。森を抜ける道だったそうだ。

ところで、きよっちはどこにいるのかな。あっ、そういえば、江戸時代の清田は今、きよっちが歩いているような深い森に覆われて、まだ誰も住んでいなかったそうだ。

おっ、何か見つけたみたいだぞ。ドングリの実か。懐かしい、懐かしい。子どもたちが木の実でよく遊んでいたのう。しかし、わしが欲しいものとは少し違うようだな。

札幌本道

1868年の明治維新で北海道の開拓が始まった。開拓に当たった技術者の一人、ケプロンがアメリカに似た幅の広い道を提案したのじゃった。そして、1873年に札幌本道(さっぽろほんどう)がつくられた。道をつくる工事にかかった人は75万人。幅は7メートルから13メートルで、札幌と函館(はこだて)を結ぶ道だった。あしりべつにも橋ができて、旅人が行き来した。

この絵は三里川(さんりがわ)にできた当時の橋の絵だ。この土地は三里塚(さんりづか)と呼ばれ、今の里塚(さとづか)に当たる。札幌から三里先の場所、12キロ離れた地域ということになる。

札幌本道は人や馬車が通る道だった。北海道の開拓に必要なものが馬に引かれて運ばれていったんじゃ。

旧島松駅逓

そこはどこだ。どうやら、清田の近く、島松にある旧駅逓(えきてい)みたいだのう。

駅逓というのは、郵便局の役目をしたり、開拓のためにやってきた旅人や馬を泊める旅館のようなものじゃった。島松の駅逓は札幌本道沿いにあり、中山久蔵(なかやま きゅうぞう)さんという人がやっていた。

中山久蔵さんは仙台から来た人で、北海道で初めて米づくりに成功したのじゃ。この時代、寒い北海道で米づくりは難しいと言われていたもんだ。しかし、ご飯を食べたくて食べたくて、稲穂に長い毛のある赤毛種(あかげしゅ)を生み出し、育てたんじゃ。

長岡重治

そして、わしの名前は長岡重治(ながおか じゅうじ)。北海道を開拓するため、1871年に岩手県から移り住んだ。その後、久蔵さんから赤毛の種をもらい、清田で初めて米づくりを始めたんじゃが、わしも駅逓と似た休泊所(きゅうはくじょ)というのを始めた。

そのうち、道の周りに40家族が住むようになったが、米づくりはなかなかうまくいかなかった。生きていくのにやっとという時代じゃった。

了寛(りょうかん)さんのお話1

(了寛さん)
機械がありませんから、斧ですとか鋸(のこ)ですとか、そういうもので手作業で行ったということで、かなり過酷な労働を朝早くから夜、夕方までずっと続けて、そして、やはりつらいつらい日々を毎日過ごしていたという風には言えるかと思いますね。

あしりべつ墓地

(きよじい)
悲しいことだが、開拓が始まって厳しい自然や労働の過酷さで亡くなった人もいた。こうした人たちの供養をするため、1886年にあしりべつにお墓をつくったんじゃ。

厚別分教場

人が住み始めた頃は清田に学校もなくてのう。わしが先生役となり、自宅で塾のようなものを開いた。月寒尋常小学校厚別分教場(つきさむじんじょうしょうがっこうあしりべつぶんきょうじょう)が開校し、子どもたちの心も豊かになっていった。

きよっちは川の近くまで来たようだ。木の枝か。あしりべつ川と木は、縁が深いんだぞ。山で切り出した木をあしりべつ川に流して、まちまで運び使っていたんじゃ。

しかし、わしが探しているのは木ではない。昔も今も木は生活に欠かせないものじゃが、自然を守ることも大切なのじゃ。

了寛さんのお話2

(了寛さん)
非常にたくさんの良い木がいっぱいありましたから、それを冬場に切りまして、そしてある程度蓄えておいて、春に雪どけ水が豊富なときに、このあしりべつ川を利用して流しました。ですから、運搬の役割も果たしたわけです。

サケはたくさん上ってきたんですね。サケが上ってきましたから、地域の人たちがそのサケをたくさんとりまして、食用にしたり、またはそれをとって売ったりというような生活の支えにもなったと。

あしりべつ川の氾濫

(きよじい)
その一方で、あしりべつ川は昔から氾濫(はんらん)を繰り返し、わしらを苦しめた。水害で田んぼや畑も水につかり、台なしになってしまったものよ。みんなで消防団を結成して地域を守る努力を続けてきたんじゃ。

みんなの努力の甲斐があって、“むら”から“まち”になり、川の周りに水田が広がっていったのじゃ。その風景から清田と呼ばれるようになった。お米のほか、じゃがいも、麦そしてリンゴやナシなどの果物づくりも盛んになり、農業のまちとなっていったのじゃ。

板東さんのお話1

(坂東さん)
見わたす限り畑です。農家しかありませんでした。給料取りは学校の先生とおまわりさんだけ。あと全部農家で、平岡(ひらおか)は二十何軒ありましたね、農家が。全部農家です。

里塚小唄

(きよじい)
懐かしい唄が聞こえてきたのう。第二次世界大戦が終わって間もない1950年に清田の若者たちがつくった里塚小唄(さとづかこうた)だ。最近楽譜が見つかったので、またみんなが歌えるようになったのじゃ。唄を聞くと、昭和半ばの生活ぶりがわかるのじゃ。

小山内さんのお話

(小山内さん)
本当にこの土地で、この土地に生まれこの土地で汗を流し台地を耕し、そういう風な人がつくった唄というのは、まず札幌には(ほかには)ないです。

昭和25年にこの唄がつくられたようなんですけども、戦後敗戦になってから5年頃ですね、復興のその意気込みというものが、やはりこの田舎(いなか)にも伝わってきて。

ここの地域は、非常に遅れて、明治の開拓期を遅れているわけですよね。ここにはほとんど人がいませんでしたから。私は開拓もまちづくりも同じだと思うんです。都会でもやるんだから、われわれも一つ日本をまちづくりしようということで。

【後編】

弾丸道路

(きよじい)
戦争が終わって8年が過ぎた1953年、長い間使われていた札幌本道が役目を終えた。アメリカ軍からの要請を受けて最先端の技術を集め、国道36号をつくったんじゃ。この国道36号は弾丸道路(だんがんどうろ)と呼ばれていたのう。

舗装道路の上を、スピードを上げて弾丸のように車が駆け抜ける。この後つくられていく高速道路のお手本となり、時代を先取りした道じゃった。

道といえば、まだ砂利道の多い時代じゃった。新しい技術の一つだったアスファルトを採用したのは、画期的だったんじゃよ。アスファルト舗装は痛んでも修理しやすいので、厳しい北海道の自然に適していたんだ。

板東さんのお話2

(坂東さん)
時間がかからないのはすごくうれしかったね、やっぱり。ガタガタ道よりはね。あと、その頃農作物みんな中央市場まで出荷しましたから。ウチは最初から貨物四輪だったから。ほかの人はみんな三輪車さ。(私は)昭和34年に免許をとった清田の女性ドライバー第1号。

清田の発展

(きよじい)
それから国道36号を通る車が増え続け、片側2車線の道路が平行してつくられていった。清田を通るもとの道は、旧道として残すことになった。

国道36号を通る車が増えていった1960年代から70年代にかけて、清田のまちも大きく変わっていくことになる。1972年には冬のオリンピックも開かれ、それを機に札幌は100万都市になったのじゃ。

この頃、住宅地がまちの中心から近郊へ広がっていく。それに合わせた札幌の新しい地域計画に沿って清田から田んぼや畑が姿を消し、団地や住宅、そして公園などが次々につくられたのじゃ。わしが知っているのは、ここまで。きよっち、次は今の清田のこと、わしに教えておくれ。

現在の清田

(きよっち)
わかりました、おじいさん。1997年には豊平区から分かれて清田区になったんです。そして、旧国道もできてもう60年以上経ちました。今、その歴史を地域に残していくために、みんなが旧道の周りに集まり、体験イベントなどを開いています。

(きよじい)
ほう、それは良いなあ。たとえばどんなイベントがあるんじゃ。

(きよっち)
春には清田区に住む人たちが集まり、旧道沿いの桜を見ながらのウオーキング会や花壇づくりなどをしています。毎年9月10日の旧道の日には歩道や花壇の清掃も欠かさずやっています。

(きよじい)
なぜその日が旧道の日になっているんじゃ。

(きよっち)
数字の9(きゅう)と10(とう)で旧道になるんです。えへへ。

(きよじい)
なるほど、ダジャレか。あはは。でも、こうした機会を増やして地域の人たちが集まり、仲良くなるのは大事なことだぞ。

(旧道の日に参加した小学生の感想)
思ったより大変でした。
お花がいっぱいあるところってきれい。

牧野さんのお話

(牧野さん)
清田区は比較的新しいまちなので、清田に住んでいると歴史を感じる瞬間がですね、あまりないのかもしれません。しかし、普段皆さんが何気なく使っているこの旧道は、実は北海道を開拓する上で非常に大事な道で、なくてはならない歴史的な道だと、皆さんにそういうことを伝えていけたらと、そのように思っております。

きよっち音頭

(きよっち)
僕もたくさんのイベントに参加しています。2012年にはきよっち音頭もつくってもらいました。歌詞の中には旧道のことも出てきます。

♪旧道記念碑 桜並木は花ざかり

(きよじい)
ほう。きよっちと一緒にステージで踊っている人がいるなあ。

(きよっち)
音頭の作詞と振付を担当した健康づくりグループの人たちなんです。

大西さんのお話

(大西さん)
清田区のふれあい祭りがありまして、そのときもけっこうな方が入ってきて一緒に踊りました。子どもたちが「きよっち」ってこうやって。それが本当にほほえましくて、本当にありがたいことだなと思いながら、もっともっと(清田区の)ゆるキャラとして、札幌市にまず出て行って、札幌市から全国区になってほしいかなというのが私の思いです。

きよじいの探しモノ

(きよじい)
多くの人たちが力を合わせ、清田の歴史をつくり上げてきたことをわかってくれたかのう。歴史を知ると、清田のことをこれまで以上に好きになってくれたと思う。普段何気なく見ていた風景も、別の顔が見えてきて楽しいものよ。

でも、探していた物をとうとう思い出せなかった。今の清田は、わしの生きていた頃とは風景が変わってしまったからかのう。

清田小学校 ゆめ田んぼあしりべつ

おお、思い出したぞ。稲が実っている。わしが欲しかったのは、この稲穂だったんじゃ。子どもたちがちゃんと受け継いでくれたんだのう。うれしいことよ。

エンディング

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