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更新日:2023年2月10日

札苗再発見その22

石狩川に船が浮かんでいた頃

少し破れかかった1枚の写真。ジャンプ台のような斜面の上をたくさんの桶のようなものが連なり、一番上には歯車のようなものが見えます。煙突もありますね。特殊な船のようです。

写真の裏側には、説明書きが貼ってあります。「鋤鏈式浚渫船(じょれんしきしゅんせつせん)千葉号」と書いてあり、明治35年8月に竣功したことや、性能などについて記載されています。
「鋤(すき)」は土砂をかき寄せる道具。「鏈」は「連ねる」という意味があります。
今の単位に置き換えると、船の長さは約40メートル、幅は15メートル。桶(バケット)は34個連結されていて、煙突の長さは12メートル…。

この写真を見せてくれたのは、中沼町第2町内会で会長を務める西川橘郎さん。
西川さんは、昭和7年に秋田県の藤原家の6男として生まれました。昭和26年頃から農業などの仕事を求め北海道に出て来ていましたが、知人の紹介で、昭和31年に、開拓士族3代目の西川清さんの長女:昌子さんと結婚されたそうです。
西川家は、明治15年、昌子さんの曾祖父である五郎さんが39歳の時、福岡県からこの地に入植しました。このシリーズの「その13福移開拓の歴史を伝える3つの碑」でも紹介したように、その年は、旧福岡藩黒田家士族40余戸が入植した年。
結婚した頃は、札沼線(今の学園都市線)のすぐそばの堤防の内側にあった下福移漁師街と呼ばれた所に居を構えていましたが、治水工事のため、昭和46年に、福移小中学校(札幌市東区中沼町240番地)の隣に移転されました。
「前の家はかやぶきで、外側にはたくさんのサケが干してあったんだよ。すぐそばを通る汽車の音で時間が分かったものさ。この写真は、親戚に石狩川の治水工事にかかわっていた者がいたので、家にも残っていたんだと思うよ。」と西川さん。

石狩川流域への入植が始まったのは、明治2年、札幌に開拓使が設置されてから。明治31年9月、石狩川流域は記録的な洪水に見舞われ、その翌年から治水計画に関する調査が始まりました。明治37年にも大洪水が発生。明治43年には石狩川治水事務所が設置され、本格的な治水事業が開始されます。
治水工事の一環で、当時、このような浚渫船も活躍していたと思われますが、この写真の船は、いつ頃どこで活躍していたのでしょうか。

直接、千葉号のことに触れた資料がないかと西川さんにお尋ねしたところ、これになら何か書いてあるかもしれないと、一冊の分厚い本を貸してくれました。
1,041ページに及ぶ「シノロ-140年のあゆみ-」は、平成15年に発行された篠路開基140年の歴史を詳細に編纂した記念誌。その中に1カ所だけですが、「浚渫船千葉号」の文字を見つけました。
そこには、「浚渫船千葉号が大正8年6月21日から浚渫に従事した。浚渫と陸上掘削を行って大正10年9月21日に通水し、石狩川捷水路第1号の誕生である。また大正10年の掘削土は、当別太築堤土として利用されており、今の札沼線鉄橋上下流の堤防である。」との記述がありました。
捷水路とは、蛇行する河川の屈曲部を直線的に連絡するために開削した人工水路のことをいい、ショートカットと呼ばれるもの。明治35年に竣功してから、大正8年までの間のことは分かりませんが、この船の活躍の一端がうかがえます。

西川さんの自宅からすぐ近くにある堤防に上がってみました。草木が生い茂り、石狩川の川面はあまり見えませんでしたが、今から100年ほど前、この辺りに多くの船や漁師の家があったと思うと、感慨深いものがあります。
明治期の道路はほとんど整備されていなかったため、石狩川は開拓民にとっては、交通手段、物資の輸送になくてはならない「道」。昭和初期に鉄道に取って替わられるまでは、船の行き来が盛んだったとしても、当時の人々は、このような異形な船をどう見ていたのでしょうか。

 

当時の思い出を語る西川会長

石狩川堤防から鉄橋を望む

 

 

西川さんも編集委員を務めた「福移開拓百年記念誌」から、昭和12年頃の福移地区の様子。
地図の左上の鉄橋付近に旧西川家、右側に治水事務所が位置しているのが分かる。

【平成21年(2009年)11月記】

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