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白石の歴史は、戊辰戦争で敗れた仙台藩の白石城主、片倉小十郎の家臣の人々が明治4年11月に当時、最月寒と呼ばれていた地(現在の中央付近)に移住したことに始まります(白石城は現在の宮城県白石市に位置)。彼らは、冬の寒さに耐えながら、現在の国道12号沿い(白石公園付近から白石神社までの間)に短期間で住まいを完成させました。そして、その熱心な働きぶりに感心した開拓使の岩村判官が彼らのふるさとの名を取って「白石村」と命名。これ以後、この土地が「白石」と呼ばれるようになりました。
この地域は、明治4年に移住してきた仙台藩の白石城主、片倉小十郎の家臣の人々が、最初に造った道路(現在の国道12号)を中心に発展しました。
現在の地名は、その道路を中心に白石神社から望月寒川までの両側の地域を「本通区」、そこから上白石(現在の菊水)までを「中央区」としたことに由来しています。
この地域は、以前は本通と呼ばれていた地域で、昭和36年に始まった白石神社区画整理事業により整備が進められました。国道12号とJR函館本線の間には、新たな道路も造られ、地域住民の話し合いにより、「平和通」と名付けられました。
この名称は、地域住民の平和を願う気持ちが込められたもので、そのまま現在の地名となりました。
この地域は、明治15年に月寒地区から移住した岩井澤七兵衛らにより街並みを形成していきました。その後の開発は、福井県、富山県、愛媛県、岩手県などの多くの県から移住した混成団により進められました。地名の由来は明らかではありませんが、本通より南部を「南郷」としたようです。
この地域は、かつては南郷の一部でのどかな田園地帯でしたが、昭和31年に始まった土地区画整理事業により、住宅地へと姿を変えました。
当時の高田富與(たかだ・とみよ)札幌市長が「本通」と「南郷通」から1字ずつ取り、「本郷通」としたのが地名の由来です。
この地域は、白石に初めて造られた道路(現在の国道12号)に直角に造った横道(現在の米里行啓通)に沿って14戸の家が移転したことに始まります。その横道は、本通りに対する横通りの意味で、「横丁(町)」という愛称で呼ばれ、人々に親しまれてきました。
名称が改められたのは昭和35年で、地域のさらなる発展の願いが込められ、国鉄の東札幌駅と開局間近だった東札幌郵便局の名前から、「東札幌」となりました。
菊水地区は、明治4年に今の白石地区に移り住んだ旧白石藩の士族の一部が、明治6年にさらに豊平川右岸沿いに移り住んだのがはじまりです。明治7年9月に「上白石村」と命名されましたが、明治35年に上白石村は白石村と合併し、上白石1区から4区までの字名に変更になりました。その後、明治43年に上白石地区の一部が札幌市と合併し、以来札幌市白石川岸〇番地と札幌市白石〇条〇丁目と称してきました。時は移り昭和25年に行われた白石村全村の合併により、上白石地区と先に合併していた札幌市地区との字名の整理・統合が必要になり、札幌市長から字名変更の提案が議会に出され、地域からは「菊水」の字名が要望されて、審議の結果昭和29年に現在の字名「菊水」に決定されました。この名の由来は、明治のはじめに上白石村(今の菊水元町)に家を建てて農園を開いた菊亭侯爵の「菊」の一字に豊平川の「水」を加えてつくられたものです。
その際、当時の白石・白石川岸の地区と、国道12号線以西の上白石2・3・4区の地区をともに合わせて、四つの町に分割して「菊水東町」「菊水西町」「菊水南町」「菊水北町」とし、残る上白石1区の地区は、鉄道函館本線を以って二つの町に分け、「菊水上町」「菊水元町」としました。
その後、昭和48年に「菊水東町」「菊水西町」「菊水南町」「菊水北町」は「菊水〇条〇丁目」となり、「菊水元町」は「菊水元町〇条〇丁目」、「菊水上町」は「菊水上町〇条〇丁目」となり現在に至っています。
この地域は、明治12年に岩手県の人々が現在のJR白石駅周辺に移住してきたのが始まりで、森林を伐採し、木炭を焼いて売る傍ら開発されました。
「北郷」と呼ばれるようになった由来は明らかになっていませんが、当初に付いた地名で、本通より北部を「北郷」としたようです。
この地域は、明治17年に信州信濃の人々が移住したのが始まりで、稲作を目的に開発されました。
厚別川の川下に当たることから、昭和7年の町村制施行後、「川下」と名付けられました。
また、昭和42年に川下と北郷の間の地域が、それぞれから1文字ずつを取って「川北」として、川下と分かれました。
この地域は、厚別区との分区前は「大谷地」の一部でした。
「谷地」は沼地、湿地を指し、この辺りが大きな湿地帯であったことからそう呼ばれていました。
JRや国道12号、南郷通、道央自動車道などの交通網を利用した道内物資の物流拠点として整備され、分区を機に「流通センター」となりました。
この地域は、区画整理事業が終了した昭和38年、白石と豊平の境界をなす道路が通っていた地域であったことから、「界通(さかいどおり)」に、地域の繁栄の祈りを込めて「栄」の文字を当て、「栄通」と名付けられました。
この地域は、明治23年に9戸の農家が移住したことにより開発が始まりました。
ここでは、水が豊かであったことから、早くから稲作が行われ、移住の2年後には初めての収穫がありました。
地名の由来もここにあり、「米が豊かに実る里」という願いを込めて、「米里」と名付けられました。
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