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更新日:2023年2月10日

札苗再発見その13

福移開拓の歴史を伝える3つの碑

 

緑に囲まれた福移神社

福移開拓五十年碑

 

神社に一番近い五角柱の地神碑

福移開拓百年碑

百年碑の裏側に刻まれた碑文

 

モエレ沼公園から北東にしばらく走ると、篠路清掃工場の紅白の煙突が見えてきます。そこはもう北区との境界。近くには石狩川も流れています。札幌北広島環状線から福移小中学校に向かう道路沿いには、福移神社があり、小さな境内には、3つの石碑が並んで建っています。
神社に一番近いのは、明治34年に建てられた五角柱の地神碑。それぞれの面には、五穀豊穣を祈願して、天照大神(あまてらすおおみかみ・太陽の神)、稲倉魂命(うかのみたまのみこと・食物の神)、少彦名命(すくなひこのみこと・農耕の神)、埴安媛命(はにやすひめのみこと・土の神)、大己貴命(おおなむちのみこと・別名:大国主命農耕の神)の神名が刻まれています。
その隣にあるのは、昭和6年9月に建てられた「福移開拓五十年碑」。第20代北海道庁長官池田秀雄氏が揮ごうしたもので、荒く削られた自然石には、開拓を支えてきた43人の氏名も刻まれています。
鳥居側にあるのは、昭和56年9月に建てられた「福移開拓百年碑」。堂垣内尚弘知事の揮ごうによるもので、福移開拓百年記念協賛会が建立した黒みかげ石の裏側には、「北辺ニ新天地ヲ求メ」で始まる碑文が刻まれています。建立に合わせて、記念式典も大々的に挙行されました。

東区最東部で石狩川に沿ったこの一帯は、かつて「当別太」と呼ばれていました。
この地区の開拓は、明治15年、木野束氏を筆頭とする旧福岡藩黒田家士族40余戸が入植したのが始まり。士族たちは「北海道移住開墾社」を組織するなど、少しずつ開墾を進めていきます。明治25年には63戸、明治31年ごろには140戸、人口600人を数えるようになりました。
しかし、明治31年、37年に起きた石狩川の大洪水が、この開拓地を徹底的に痛めつけ、多くの農民が村を離れていきました。福移開拓の歴史は、厳しい自然との闘い、特に「水との闘い」であったといっても過言ではありません。
困難の連続であったこの地の開拓も、築前魂で乗り切って、現在まで農業を続けている家もあります。

ところで、「福移」という地名は、学校名が起源だったことはご存知でしょうか。入植からわずか2年後の明治17年、福岡藩士の高崎国丸氏を教師に迎えて寺小屋教育が始まり、明治25年には、小さな掘っ立て小屋を篠路教育所の仮分教場に昇格、高崎氏が、福岡の「福」、移住の「移」をとって「福移分教場」と命名。後に、これが定着して、「福移」の地名になったそうです。福移分教場は、大正3年、石狩川治水工事のため、現在地に校舎移転となり、今の福移小中学校に至っています。
福移が正式な字名となったのは昭和12年で、それまでの篠路村字当別太は、篠路村字福移に地名変更。この辺は「中当別太」から「中福移」と呼ばれるようになりました。昭和30年には、札幌市と篠路村の合併で篠路町福移に。昭和47年、札幌市が政令指定都市に移行する時に中福移地区は北区と東区に分割、東区では中沼町の一部となり、現在に至っています。


【平成21年(2009年)5月記】

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