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(屯田兵以前|屯田兵の里|屯田兵が残した物|最大の遺産|歴史を語るもの|各種碑について)
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黒田清隆 |
西郷隆盛 |
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雪中訓練の様子 |
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正装の屯田兵 |
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屯田兵手帳 |
屯田兵の制服と制帽 |
「屯田」とは?
広辞苑によると、「屯田」とは、「兵士などを遠隔の地に土着させて、平時は農業に、非常の時は戦争に従事させること。もと中国の土地制度で、(中略)漢代に始まり、明清に至る」とあります。
屯田兵制度は中国の故事にならい、時の開拓使次官黒田清隆(後に長官)の発案により明治7年(1874年)に発足しました。しかし、制度創設の発端となったのは、西郷隆盛の建議であり、彼はその司令官を希望したといいます。屯田兵は後に、西郷隆盛が起こした西南戦争を鎮めるため、官軍側として派兵されました。
こうしたことは、両者の不思議な因縁を感じさせ、屯田兵の成り立ちを知るうえでも、私たちに新鮮な興味を与えてくれます。
屯田兵制度は在住制度を母体として発展していきました。明治8年(1875年)の琴似を皮切りに、最後となる同32年(1899年)の士別・南剣淵・北剣淵まで、北海道内に37兵村(発寒兵村を含めると38)が置かれました。屯田兵制度は、明治37年(1904年)に廃止されるまで続きました。
琴似の屯田兵は、主に旧仙台藩士や旧会津藩士からなり、明治8年(1875年)に198戸が、翌9年(1876年)に3戸、11年(1878年)に7戸が分家補充され、208戸となりました。
また、明治9年(1876年)には発寒に32戸が入植し、琴似屯田兵村の分村として発寒地区にも屯田兵村ができました。琴似と発寒を合わせて、合計240戸をもって第一大隊第一中隊が編成されました。彼らは、札幌本府の防衛および北方警備の兵役の一方で、琴似・発寒とその周辺地区の開墾に尽力し、今日の西区の基礎を築きました。
当時、政府の開拓の方法として「官移民」(屯田兵)と「自移民」の手法がとられましたが、西区はその両方が最初に試された地域でした。
官移民と自移民は、入植時に政府から渡航費、生活費、支度金などが支給され、国費を使うという点では変わりません。しかし、官移民である屯田兵が入植後も政府の援助があるのに対し、自移民については入植後は全て自力で生活しなければならなかったという違いがありました。
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