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ホーム > 南区の紹介 > 南区開拓夜話 > 悲願の本願寺道路

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更新日:2021年4月5日

悲願の本願寺道路

中山峠の現如上人

 

ご覧いただく前に

著者はすでに他界されており、記述されている以上の情報についてはわかりかねますことをご理解いただいた上で、南区の開拓の歴史に触れていただけると幸いです。 

 

中山峠の現如上人

 国道230号線の中山峠に現如上人(げんにょしょうにん)の銅像が建っていて、峠を越える人びとの安全を祈願しているかに見える。これは昭和42年(1967)設けられたもので、「本願寺道路(ほんがんじどうろ)開削中の最大の難所」であったことを物語っている。
 さて、明治2年(1969)新政府によってエゾ地が北海道となり開拓使が置かれ、多難な財政確立を図っていかなければならなかった。特に北方のエゾ地・千島(ちしま)・樺太(からふと)の防備策を急ぐことであった。
 いっぽう内政面では、東本願寺は徳川家に恩顧があり、こうした関係を重く見て東本願寺を排除しようとする形勢が朝廷派(薩長軍)にあって、"東本願寺焼き打ち計画"が宮中会議で決議された時は「全く反意がない」旨の誓書を朝廷派に提出するという事があった。
 結局は、新政府は"誓書"の代償として北海道の防備(道路開削)を東本願寺が出願(明治2年6月5日)新政府が許可(明治2年9月3日)ということで決定した。まさに慈悲の心をもって対した「悲願」であった。
 東本願寺はただちに新道切開・農民移植・教化普及の3重点をかかげ、「勅書・開拓御用本願寺東門主)」の評札を先頭に178人は、新門跡現如(しんもんぜきげんにょ・大谷光榮(おおたに・こうえい))上人(18歳)を先頭に「北海道への悲願の旅」がはじまった。
 明治3年(1870)2月10日比叡(ひえい)おろしの吹く京都を出立、"人をして蝦夷地(えぞち)に行くを楽しましむの歌"を道中歌にして越中(えっちゅう)・越後(えちご)・酒田と北上し、「廃仏思想」の根強い秋田は海浜で青森に上陸ふたたび津軽の海を渡って函館には7月7日到着した。
 本願寺道路として今に残るのは、軍川~砂原・鶉(うずら)~大野・尾去別(おさるべつ)~平岸・山鼻~八垂別の4本あるが、なかでも大工事は尾去別~平岸を結ぶ26里10町(約105km)だった。うっ蒼とした大森林に挑む大工事に先立って、僧侶に加え多くのアイヌを雇い、さらに仙台伊達藩の旧士族移住者50人と他移住者50人を募ることができた。
 明治3年(1870)7月尾去別より工を起し翌4年(1871)10月平岸終点まで1年3ヶ月という短期間で完成した。
 オサルベル~ソウベツ~ニッポキナイ~ヌツキベツ~シリベツ~アンユク~ムイナイ~ケレベツ~定山渓~ニセイオマップ~平岸の経路は、断崖をおそれず毒虫や狼と戦い、樹陰に露をしのぎ、石を枕に雪をしとねに千幸万苦して難工事をすすめたおかげで、うっ蒼とした原始林を伐木刈分け3間(約5.4m)道幅9尺(約2.7m)橋梁113ヶ所・渓合敷板17ヶ所・総工費で18,057両(約2億円)延人夫55,000人当時としては最良の道路が完成した。
 この道路こそ開拓使本府に通ずる第1号で、現国道230号線の前身である。
 現在、中山峠や簾舞二星岱(にせいだい)南麓・平岸天神山南麓に旧道碑があり、ここを訪ねると、東本願寺の円頂(丸坊主頭)に僧衣をまとった僧侶がジュズにかわってオノやモッコで道づくりに参加した悲願の縁が偲ばれる。 


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