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ホーム > 南区の紹介 > 南区開拓夜話 > 青い目の人形と開拓医

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更新日:2021年4月6日

青い目の人形と開拓医

青い目の人形

 

ご覧いただく前に

著者はすでに他界されており、記述されている以上の情報についてはわかりかねますことをご理解いただいた上で、南区の開拓の歴史に触れていただけると幸いです。

青い目の人形

 昭和2年(1927)簾舞はリンゴの花が芽吹く暖かい春の日だった。
 全校生徒や部落代表の居並ぶ前で、豊平役場の助役から礼服白手袋の学校長に「青い目の人形」が盛大な拍手のもとに贈られた。パスポート、人形使節を考えたアメリカ人宣教師シドニー・ギュ-リック博士の"日米親善の願いをこめた手紙"もそえられていた。
 歓迎会は"人形を迎える歌"に合わせ盛大に行われた。目を開いたり閉じたり、「ママー」と声出す"青い目の人形"は、全校生徒にとても可愛がられだいじにされながら、平和の里簾舞にはまことにふさわしい記念の贈り物であった。
 ところが、時代は思うようにならず、不況や軍国の思想は吹き荒れ、日米関係も悪化し、昭和16年(1941)12月8日ハワイ真珠湾攻撃によって日・米英間に宣戦が布告され忌まわしい第二次世界大戦になった。そのために"鬼畜米英"の叫びは、日米親善のための可愛い人形にまで及んだ。ギューリック博士の折角の願いで全国11,970体うち北海道643体贈られたほとんどが敵国の人形として焼かれたり砕かれて処分されてしまった。
 しかし簾舞小学校の"青い目の人形"は処分されることなくだいじに保存されてきたという微笑ましいエピソードが、小学校100年記念誌に書き残されている。昭和18年(1943)12月の夜、箱ごと風呂敷に包んだ人形をだいじに持って西(にし)二三医師を訪ねたのは薬局の小泉宣夫(こいずみ・のぶお)氏で、学校にある"青い目の人形"の危機を知り緊急学校から持ち出し相談に訪ねた。
 (西二三医師は明治45年(1912)東京慈恵医専(じけいいせん)を卒業、父・順仙(じゅんせん)(小樽で医院開業)の指示で急病人の治療で簾舞に代診で来村したことが縁で、生涯を開拓医として定山渓沿線医療に偉大な足跡を残し、簾舞の文化発展につくした人であったから、人形の危機を乗り切るために、保護者会長として責任をとることを決意した。ただちに、家族に言いふくめ、医務室の劇薬保管庫裏に薬品包装紙でくるみ隠したが、当時としては国策にそむいたことだったから悲壮なものであった。
 こうして人形は無事戦後を向かえ、昭和20年(1945)10月学校に戻された=僻地発展に身を挺した西医師は昭36年(1961)82歳の高齢を全うし終えた=
 こうして、処分されそうになった人形は、心ある人の善意によって救われ、さらに昭和63年(1988)には、小学校の栗田(くりだ)用務員さんの誠意によってようやく長い眠りから覚めた。こうした温かい思いやりこそ簾舞の里にふさわし話だ。
 おかげで簾舞小学校には、昭和2年(1927)の人形にはあらためて「ベティアン」の名が贈られ、平成7年(1995)にはギューリック三世から「マリアン」が贈られ、さらに小学校100才のお祝いにメリーランドの子どもたちから「メロディー」が贈られるなど、善意と愛情のおかげで、"3体の青い目の人形"がそろいあらためて日米親善の架け橋になった。


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