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更新日:2023年1月10日

42.鉄道高架で進むまちづくり

エピソード・北区

第5章:交通

36.「弁慶」時速二十キロで登場37.石炭搬出のにぎわいも遠く38.夢と思い出を運ぶ39."汽笛一声"に歓声と涙40.札幌最北の駅41.札幌の味を育てて一世紀42.鉄道高架で進むまちづくり43.全国初のディーゼル今はなく

42.鉄道高架で進むまちづくり-踏切の渋滞に悲鳴-

高架完成までの歩み

 

平成2(1990)年、新川通(新川1条6丁目)の渋滞。前方には工事中の高架が見える(提供:札幌市写真ライブラリー)

平成12(2000)年3月11日、沿線住民は装いも新たな高架を誇らしげに疾走する列車の一群を、感無量の面持ちで見送っていた。その力強い響きは、JR札沼線(学園都市線)の高架完成の感動を伴って―。
この路線の歴史は、昭和9(1934)年11月の国鉄札沼線の開通から始まり、現在では「学園都市線」の愛称も定着している。同線が、この愛称で呼ばれる大きなきっかけとなったのは、昭和末期から平成初期にかけてのあいの里地区の発展である。この地区には北海道教育大学札幌分校及び付属小・中学校が中央区から移転・開校し、あいの里教育大駅も新設された。これにより、あいの里地区は文教地区として目覚ましい発展を遂げたのである。しかし、この発展に伴い、通勤・通学の利用客が急増し、地域住民からは、さまざまな要望が寄せられていた。乗降人員に適した列車運行数の増加や14カ所の踏切による交通渋滞、鉄路及び踏切周辺の安全確保などである。
これらの課題についてJR北海道と札幌市が対策に乗り出し、検討した結果、八軒駅―あいの里教育大駅間(11.4キロメートル)を複線化、そのうちの八軒駅―太平駅間(4.5キロメートル)を高架化することが決定された。そして、平成5(1993)年10月の着工から6年余りの工事期間を経て、平成12(2000)年3月に完成したのである。

自然豊かな環境のまちへ

「うーん、鉄道が高架になる話を初めて聞いたのは、今から15年ぐらい前だったかな。その後、しばらくは話が進まなかったようですが、長かった夢や希望がようやくかないましたよ」。昭和56(1981)年から新琴似地区に住む阿部重雄(あべしげお)さんは、しみじみとこう語った。
「新琴似四番通の踏切付近の渋滞はすごかった。通勤ラッシュの時間帯は、列車の増発が重なり10分以上も遮断機が上がらずに、自動車の長い列が数百メートルにもわたって続いていたものさ。高架は都市化のシンボルですよ。全く隔世の感がありますね」と、その変転ぶりを感慨深げな表情で言葉を続けた。
最後に、「今後は、地域住民が手を携えながら、屯田防風林から新川までの高架沿いに、大きな緑地帯を造りたいですね」と、大きな夢の構想も話してくれた。

豊かな人生のまちづくりへ

「いやあ、地下鉄北24条駅行きのバスが走るところの踏切の渋滞は、とってもひどかったですよ。通勤や通学のお客さんは、みんないらいらしていましたよ。私もその一人でね」。長年、新川地区で造園業を営む城木浩一(しろきこういち)さんは、自分が高校に通学していたころを思い起こしながら、こう語る。
高架が完成してからのことについては、「高架の下には地域住民の集会所が建てられ、合唱の練習や趣味の会でいつもにぎわっています。これまで以上に地域住民の交流が進んだのは、高架のおかげだと思います」と、地域の一体化の進展にほおを緩める。
「高架下の遊歩道には、ウオーキングや自主的にごみ拾いをする地域住民の姿が年々多くなってきているんです」。そう語る城木さんは、今後のまちづくりの息吹を感じているようだ。

地域の交流をますます深めて魅力的なまちに

完成式典では、桂信雄札幌市長が「分断化されていた地域が一体化し、北区の発展につなげてほしい」とあいさつ。この思いは、地域住民にも伝わり、阿部さんと城木さんも異口同音に抱負を語っている。
「これをきっかけに地域の交流をますます深め、将来、誰もが住んでみたくなるようなまちづくりを進めていきたい」と。

(「新・北区エピソード史(平成15年3月発行)」掲載)

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