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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第5章:交通 > 39."汽笛一声"に歓声と涙-国鉄札沼線

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更新日:2023年1月10日

39."汽笛一声"に歓声と涙-国鉄札沼線

エピソード・北区

第5章:交通

36.「弁慶」時速二十キロで登場37.石炭搬出のにぎわいも遠く38.夢と思い出を運ぶ39."汽笛一声"に歓声と涙40.札幌最北の駅41.札幌の味を育てて一世紀42.鉄道高架で進むまちづくり43.全国初のディーゼル今はなく

39."汽笛一声"に歓声と涙

国鉄札沼線

線路上を馬と追いかけっこ=元SL機関士石橋為男さん

 

昭和40(1965)年ころ。札沼線石狩鉄橋上を走るC-11の勇姿。SLが札沼線から姿を消したのは昭和49(1974)年10月のことである。写真提供=続木勉さん

国鉄札沼線。桑園―新十津川間、76キロメートルのローカル線である。このうち、札幌市内を通過するのは北区間で、新琴似、篠路、東篠路、釜谷臼の4駅がある。
「札沼線の線引きはわかってましてね。帝国議会で敷設が可決される前から、村民は線路予定地の土盛りに汗みどろでした」こう語るのは土盛りに参加した篠路の松島正貫さん(72)。
新琴似でも大正12(1923)年に中山武雄氏ら5、6人が中心になって新琴似駅設置期成会を発足させ署名を集めて国鉄旭川建設事務所に嘆願書を提出していることが新琴似村史や古老の話からうかがえる。
確かに、新琴似駅と篠路駅が開設するまで両村から札幌への交通の便は極めて悪いものであった。
大正10(1921)年まで、石狩街道の陸橋あたりから茨戸まで馬鉄が走り、そのあとバスが運行された。バス時代に入っても道路は同じ凸凹、雨が降ればたちまちぬかるみであった。
農作物を積んだ馬車は動けなくなったり転倒したりで札幌への出荷には想像もつかない時間と労力を要していたのである。
開駅直前の両村を見てみると、新琴似は約140戸、700人の村で、麦、白菜などの野菜や大根を作り、篠路は約530戸、1,700人の人口で水稲や麦などを作り札幌へ出荷する純農村であったから札沼線の開駅に必死になるのも当然であった。

SLからディーゼルカーへ

昭和9(1934)年11月20日、待望の札沼線第一期工事区(桑園─石狩当別)が開通し、喜びの村民は沿線に連なって歓声を上げ、目に涙し、黒く力強い蒸気機関車を迎えた。札幌篠路間の乗車料金は19銭。菓子職人の日給が1円20銭のころである。
「札沼線は昭和49(1974)年までSLのC-11やC-56が主力でした。終戦のころまでは、線路上を放牧中の馬とかけっこしたものです」札沼線を運転した元SL機関士の石橋為男さん(66)は懐かしむ。
今、札沼線を明るいツートンカラーのディーゼルカーが軽やかに走るのを見るとき、『篠路村史』の中の「本村内には1米(メートル)の鉄路もなく、こうした交通上の悪条件がどれだけ本村の発展を阻害したことか」の文字が古老の目の中でディーゼルカーと重なるという。

(「広報さっぽろ北区版昭和51年12月号」掲載)

※現在、JR札沼線の北区内の駅は8駅。東篠路は「拓北」、釜谷臼は「あいの里公園」と改称されている。
(平成19年3月加筆)

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