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更新日:2023年1月10日

23.大地とともに生きる-開拓の母

エピソード・北区

第3章:開拓時の人々

20.蝗(こう)虫との戦いの記録21.端午の節句、正午ころ出火22.素手でクマと戦った開拓農民23.大地とともに生きる

23.大地とともに生きる-仕事に追われ我が子を見てやれぬ-

開拓の母

 

入植当時の生活用品。左からなべ、いずこ、島田鍬、箱膳、鉄びん(北海道開拓記念館蔵)

畑を起こす入植者。後ろには小屋が見える(北大図書館蔵)

北海道の厳しい開墾は、老若男女を問わず家族ぐるみの労働力を必要とし、その中でも特に女性には生活面をも受け持つ重労働が課せられた。幼女より学校に行くこともなく働き、そして結婚。幾多の苦難の中で、10人前後の子供を育て上げた明治期の女性。今、開拓の母親とも言われる彼女たちの証言を残しておくことは私たちの使命であろう。

厳しい生活

柳沢ツルさん(90)が一般開拓農民としてカヤ、ヨシなどが繁茂する篠路大野地(現・篠路町拓北)に入植したのは11歳の時。この地は泥炭で、掘り起こすのに重さ3キロもある島田鍬(くわ)が使われた。幼い少女の手は、節々が男のように太くなり、肩ははれ上がったという。
開拓は、自然と貧困との闘いである。各入植者は、度重なる水害や冷害にもめげず芋、ヒエ、エンバクなどを耕作。ヒエの一種イナキビを常食としていた。自給自足の限られた食物による料理方法に、母親は苦慮しながらも、ヒエなどでダンゴやモチを作ってくれたという。当時の身なりは、着物に夏はわらじ、冬はつまご(わらで編んだ靴)。食事には、箱膳(ぜん)という各自に食器を入れ、ふたを膳としたものが用いられた。この箱膳は、各自が洗い、元の位置へ戻しておく習わしだった。このおかげで、主婦の労働は少しは軽くなったろう。
一般開拓農民にくらべ新琴似、篠路の屯田兵家族には米や塩が官給され、この点、恵まれていたかもしれない。しかし、屯田兵が軍事訓練や出征のとき、いつも家や畑を守り、重労働を強いられるのは母親であり幼い子供であった。

ある母の愛

娘たちが、年ごろとなり結婚する先は、今と違い大家族である。年老いた義父母が、家庭面や子供の養育を助け、嫁は畑に出るというように、女性の労働力が重視された。このころの女性は、子供を産む日まで畑を耕し、産んで8日目には、仕事を始めたという。また、収穫した作物を売りに行くのも、その役割の一つであった。丹羽キクさん(95)は、馬車に麦や大根を満載。乳飲子を背負い、凸凹道であった石狩街道を南進。馬車は左右に大きく揺れ、時々引っくりそうになりながら、目的地の北8条に到着。家々を巡り品物を売った代金で、残してきた子供たちのために駄菓子を買い入れ、我が家へ。そのころにはすでに日は暮れていた。疲れた体にむち打ち、夜道を急ぐ。脳裏には、お菓子を待つ子供たちの顔が浮かび、心は軽やかだったという。そこには普段仕事に追われ、我が子を見てやれぬ母の愛情がにじみ出ている。
しかし、多くの子供を育て上げていく中で、幾多の人が栄養失調や事故で我が子を失っている。
わらで編んだいずこの中に赤子を入れ野良仕事中、猫が上に乗って、死なせたなど悲話も多い。
力強く生き抜き、今日の礎(いしずえ)を築きあげた開拓期の女性たち。
彼女たちの軌跡をたどることも、今では難しくなってきた。

(「広報さっぽろ北区版昭和53年9月号」掲載)

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