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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第3章:開拓時の人々 > 20.蝗虫(こうちゅう)との戦いの記録-バッタ塚

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更新日:2023年1月10日

20.蝗虫(こうちゅう)との戦いの記録-バッタ塚

エピソード・北区

第3章:開拓時の人々

20.蝗(こう)虫との戦いの記録21.端午の節句、正午ころ出火22.素手でクマと戦った開拓農民23.大地とともに生きる

20.蝗虫(こうちゅう)との戦いの記録-篠路にもあった-

バッタ塚

 

手稲山口バッタ塚

「拓北にもバッタ塚があったそうです。明治の始めにつくられたと」上篠路に住むお年寄りからこういう話を聞いた。
バッタ塚。明治10年代、全道的にバッタが大発生。これを駆除するため、卵や幼虫を埋め、土を盛り上げたもの。市内では西区手稲山口(注)にあるものが市の有形文化財になっている。

「カタカタ」の来襲

明治13(1880)年8月、蝗虫(こうちゅう)、十勝でアイヌの人たちが「カタカタ」と呼んでいたバッタが大発生した。カタカタとはバッタの音からきたのだろうと言われている。そのカタカタは大群集となって日高、勇払原野へ移動。そこで群は2つに分かれ、一群は虻田方面へ向かったがもう一群が北上し札幌へ入った。そのときの様子。異様な音をたてて、雲のように押し寄せたかと思うと、その後には農作物はもとより、青い物は何も残っていなかった。植物ばかりではない。群れの中に毛布や油紙を投げ込んでみたら、それも食い尽くしてしまったという。群れが去った後には、ただ赤い土と、大量の卵が残されているだけだった。
この大量の卵。最初は皆、一冬で凍死するだろうと考えていた。しかし、厳寒期の2月に雪を除いて調べたところ、凍死している様子は全くなかった。びっくりした開拓使は各地に係員を派遣。防除に努めたが時遅く、また被害を受けてしまった。
その防除法、バッタの生態に応じて違う。早春には卵を掘り起こす。幼虫になると飛び立たないうちに穴や溝に追い込んで殺す。津軽海峡に動物分布境界線をひいたブラキストンが札幌にやって来たとき、郊外にはこのための細くて深い溝がたくさん掘られていた。バッタが飛ぶようになると、網で捕らえるか地に降りてきたところをたたきつぶす。成虫して群をなすと缶をたたいたり、鉄砲を撃って追うしかないが、こうなったらもうお手上げであった。

バッタ汚職

明治15(1882)年に次いで明治16(1883)年も各地はバッタに襲われた。篠路も例外ではない。「8月10日ころ北東より蝗(こう)飛び来たり、農場及び茅(かや)、笹原一円群集し、茅、笹葉一枚も無し」「日々ブリキ板等をたたき追うといえども、かいもくハイ(ハエ)を追うごときにして効力なし」拓北に入植した滝本五郎は弟にこう書き送っている。農務局の係員も予想以上にひどい被害に驚いたという。
政府は卵を一升いくらで買い上げたり、人を雇って防除に努めたが被害は深刻になってきた。放っておいたら津軽海峡を越え、本州に飛んで行くかもしれない。ここにいたって駆除というより、バッタとの全面戦争という様相を呈してきた。政府は本州から相当の数の囚人を送り込んだ。バッタと戦う囚人部隊という訳である。また、バッタを追うために屯田兵を動員し、大砲すら撃ったという。
この戦争につぎ込んだ費用も大変なものであった。ブラキストンによるとこのどさくさで不正に手を染める役人がいたという。今ならさしずめ「バッタ汚職」というところであろう。こうした大騒ぎにもかかわらずバッタとの戦いに決定打はなかった。バッタを大発生させたのが自然なら決着をつけたのもやはり自然だった。明治17(1884)年夏は低温で長雨が続いた。猛威をふるったバッタも勢力が弱まり、大発生はやんだ。

失われた戦いの記録

「篠路にバッタ塚があったという話は私も聞いています。場所は分からないのですが。やはり被害が一番ひどかったという興産社の辺りではないでしょうか」と宮西頼母(たのも)さんは推測する。興産社とは今の「あいの里」付近である。かつて激しく繰り広げられた人とバッタとの戦いの記録、バッタ塚。それは蝗害のあったところ、どこにでもあった。しかし、それ故にかえって失われるのも早かったようである。

(「続・北区エピソード史(昭和62年3月発行)」掲載)

(注)現・手稲区山口

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