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更新日:2013年3月1日

21.中学生が発掘した遺跡

 明治45年(1912)、今から3千年ほど前に、人間が生活していたと思われる遺跡が、下手稲尋常高等小学校(今の手稲中央小学校)の校長、高橋勇(たかはしいさむ)先生と教え子たちにより、新川流域で発見されました。しかし、当時はあまり重要なものという認識はなく、大規模な発掘調査などは行われていませんでした。

■砂利採取場に土器が

 その遺跡が、再び注目を集めることとなったのは、昭和28年(1953)のことでした。手稲中学に通う中学生が完全な形をした土器を学校に持って来たことがきっかけでした。
 夏休み、中学2年生だった岡和田悟(おかわださとる)さんは、弟と新川へ釣りに出掛けました。夏場の暑さのせいもあり釣りの方はさっぱりでした。ちょうど、この川の浅瀬近くで、道路補修用の砂利を採掘していました。釣りに飽きた岡和田さんらは、なんとなくそちらへ引き寄せられ、作業を見守っていると、そこに無造作に転がっている土器を見つけたのです。首のあたりが細く、胴のあたりがふくらみ球形で手の中に入るほどのつぼ、ほぼ原型に近い平底の浅い皿と、斜行縄文の文様の入った浅鉢の3個でした。持っていた布に包み、抱えるようにして持ち帰りました。

■本格的な発掘調査へ

 11月ころ。その土器を学校に持って行き、Bクラスの石川徹(いしかわとおる)先生に見せたところ「これは、すごいものだ」ということになりました。
 石川先生が北海道大学の大場利夫(おおばとしお)教授に鑑定を依頼したところ、この土器は「野幌式土器」といわれる歴史的にも価値があるものと判明しました。翌年、雪もすっかり解け、辺りが暖かくなり始めた6月に岡和田さんは、石川先生ら数人を、発掘現場へ案内することになりました。
 その時の心境を岡和田さんは、「うれしさ半分、おっかなさ半分だった」と語っています。
 予備調査を終えた先生たちは、遺跡をこのまま放置するのは学術上あまりにも惜しいと考え、正規の手続きを取り本格的な発掘調査を行うこととしました。
 昭和29年(1954)7月3日から11月9日までの4カ月間にわたる、手稲の先住民族の歴史をひもとく大調査の始まりです。

■2年生133人で課外授業

手稲遺跡発掘の様子。先生が見守る中、生徒たちが作業をしています(前田小学校刊「郷土誌まえだ」) 大場先生の指導を受けながら、石川先生と先生を慕う生徒数名が中心となり発掘調査が進められました。「あるとき、人の骨が見つかったといって大騒ぎになりました」と話すのは、その中の1人だった小田皓雄(おだてるお)さんです。その骨は、結局、馬の骨だったということですが、土器のほかに、それまで発掘された遺跡からは、あまり出土したことがなかった小石の首飾も見つかったということです。
 「出土した土器はきれいに洗って石川先生の家で復元しました。何日も、ジグソーパズルのような作業を繰り返しました」
 調査も終盤となった10月半ばころ、授業の一環として2年生AからC組までの全クラス133人の生徒が、クラスごとに日を変え、平日の朝から発掘作業に参加することとなりました。秋空の下、手弁当を持ち狭い砂利道を一列に並び、遺跡まで歩くさまは、遠足のように見えたことでしょう。
 発掘現場は、佐藤繁治(さとうしげじ)さんの畑で、小さな破片がいたるところに転がっていたといいます。薄皮を1枚1枚丁寧にはがすようにして掘り下げ、土器などが出始めるとさらに慎重に土をよけていきます。「先生ありました」。出土するたびに、あちこちから生徒たちの歓声が上がりました。土器が出土すると、写真を撮ったり1個1個に日付を付けたりしました。
 発掘の間、佐藤さんは生徒たちに昼食をごちそうしたり、お宅で休ませてくれたりと、とても親切で、みんなの励みとなりました。
 土器の復元作業も、授業の一環として行われました。持ち帰って土器を洗い、干して組み立てます。不足部分は石膏で補いました。
 この遺跡の発掘は延べ200人の人たちの手で行われ、調査した面積は200平方メートルに達しました。

■手稲の遺跡

手稲遺跡から発掘された土器(茂内義雄さん所蔵) その後、この手稲遺跡の新川をはさんで向かい側の宮田さんの畑や、現在、前田公園となっている辺りにも遺跡が発見されています。昭和50年代に入っても、これらの遺跡の周辺から土器や石器が、よく見つかったということです。
 それらの遺跡は、すべて紅葉山砂丘と呼ばれる砂丘地帯の南側にあります。海岸線にほぼ平行に、 前田の辺りから石狩市美登位(びとい)地区まで続き、手稲のほかにも、この砂丘の南側には多くの古代遺跡があります。
 手稲遺跡は、縄文時代中期から後期中葉に属するもので、ここから出土した土器は後に「手稲式土器」と呼ばれ、この時期の代表的な資料となっています。また、その制作方法が非常に進歩していて形態が分化していることなどから、手稲の先住民族の生活様式は、著しく進歩していたと考えられるということです。

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