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更新日:2013年3月1日

20.もう一人のお母さん

 開拓初期、集落からほど遠い原野を開墾していった人たちは、お産に助産婦の手を借りることが出来ませんでした。夫婦による自立分娩(ぶんべん)か、隣近所の人々に助けられた分娩だったと思われます。
 札幌では、明治11年(1878)札幌病院付属産婆教場が設けられ、お産を経験だけに頼ることの危険性が認識されるようになりました。また、大正10年(1921)には北大付属病院に産婆養成所が開設されました。その他私立の養成所もあり、この時期から助産婦の資質が向上していきました。
 助産婦は戦後間もないころまで産婆さんと呼ばれ、地域の人たちから頼りにされるようになります。

■手稲の助産婦さん

 手稲駅(当時軽川駅)近くに、二代続いたという産婆の高橋さんが古くからありましたが(今の小樽信金辺り)、昭和7年(1932)ころ、手稲中央小学校のそばに、新しい助産婦さんが開業しました。竹内(たけうち)ミツさん、当時37歳です。
 それまでミツさんは、助産婦の資格を取るために市立札幌病院付属産婆教習所に末子の三郎さんをつれて通いました。「交通事情の悪い時代でした。朝3時に起きて、畑の世話や下宿人の朝食の支度、仕立物を済ませ、その上で若い学生に混じって勉強していました」と三郎さんはそのときの様子を振り返ります。つらい毎日を乗り越え、やっとこぎ着けた開業でした。
 当時の手稲は農家が多く、ミツさんの行動範囲は広かったようです。遠くは西野や樽川の辺りから呼ばれることもありました。冬は迎えに来た馬そりに乗って出掛けました。
 出産が近づくと、陣痛で苦しんでいる妊婦さんの腰をさすり、不安や恐怖心を和らげるように「大丈夫よ」と声をかけて励まします。生まれた赤ちゃんのへその緒を切り、もく浴させて家の人に渡す。元気な産声と家人の笑顔が一番の喜びでした。
 赤ちゃんが生まれるのは日の昇るころが多く、夜中に出かけて翌朝に帰宅するのが常でした。また、逆子などのときには、村医であっ た都築(つづき)先生(本町郵便局の裏辺り)と協力し合い、赤ちゃんを取り上げました。
猛特訓で乗れるようになった自転車で竹内ミツさんはお産に駆けつけました(竹内三郎さん所蔵) ミツさんは、農作業で忙しく、産婦が1人で寝ているような家庭では、ちょっとした心遣いを忘れませんでした。産婦の衣類やおむつを洗い、食事の支度もして、そっと帰ります。出産の用意が整えられていない家庭では、サッとその場でおむつを縫ったり、古い産着や丹前下のおむつを持って行ったりすることもあります。現金が手元にないような家庭には、あえて料金を請求しないこともありました。
 手稲で数えるほどしかいなかった助産婦さんの仕事は忙しく、しかも、遠い距離の移動の連続です。昭和30年代を目前に控えたころ、手稲中央小学校のグラウンドで、ミツさんは50歳を越えた体を傷だらけにしながら、自転車の猛特訓に励んでいました。その特訓が実を結び、大きな皮のカバンに道具を詰め、当時は珍しい女物の赤茶の自転車に、さっそうとスカートでまたがり、産家を回るミツさんでした。
 ミツさんが函館で暮らすことになった昭和35年(1960)ころまでに、取り上げた赤ちゃんは千人を超えていました。

■自宅出産から助産所へ

 自宅出産も戦前までは98%を占めていましたが、戦後、昭和30年代になるとそのような出産の仕方に変化が現れます。産婆という名称が助産婦と改められたのは昭和22年(1947)でした。出産も助産婦を自宅に呼ぶ形から、入院設備のある助産所に入院しての出産へと変わっていきました。
国道沿いにあった手稲助産院と伊藤キミヱさん。ここでたくさんの赤ちゃんが産声をあげました 手稲に「手稲助産院」ができたのは昭和34年(1959)、手稲本町の国道沿い(札幌銀行側)でした。昭和26年(1951)から鉱山通りを下がった国道の所で、自宅分娩を扱っていた伊藤キミヱさんが始めたものです。キミヱさんは19歳の時、札幌市の創成川沿いにある、奥田病院付属助産婦養成所に入所、さらに北大付属の養成所でも学び、病院勤務の傍ら看護婦、保健婦の資格も取得しました。キミヱさんは、幼い二人の子どものため、出向かずに済むようにと助産院を始めたのでした。
 しかし分娩が済むと帰宅できた時と違い、助産院は収容すると24時間、気が抜けませんでした。入院期間は1週間。食事も出し洗濯もしました。1週間の入院費用は当時9千8百円。ある産婦さんが消灯台に置いていた、化粧品の値段に満たない料金でした。
 「女性にとってお産は一大決心大事業。産婦の立場に立った思いやりを持ち、産婦から信頼を得ることが大切です」とキミヱさん。産婦は、体も精神的にも敏感になり、感情の揺れが大きいので、気持ちをうまく晴らしてあげながら、母乳が大事なことなどを話すのだそうです。
 そのようなまちの助産院には、「先生連れてきたわ…」と生まれた赤ちゃんに泣かれ困り、赤ちゃんと一緒に訪れるお母さんもいました。また、今と違い、妊娠7カ月か、8カ月になって初めて診察に来る人が多かったといいます。中には、むくみがあったり、貧血だったりする人もいました。救急車で産婦が運び込まれ、一晩中明かりがともったままの日もありました。
 忙しい毎日に追われたキミヱさんが往診に使ったのはバイクでした。自分で勉強して試験に合格すればすぐ免許がもらえたからといいます。教習所に通う時間はありませんでした。
 手足が冷えるので大変だったということですが、行きつけのガソリンスタンドで「気を付けてね、おばちゃん」という声を背に走り回っていました。バイクの音と共に温かい笑顔が現れ、身重のお母さんたちを励まします。
 平成2年(1990)、31年続いた手稲助産院は閉じられることになりましたが、伊藤キミヱさんは75歳を過ぎた今も広い札幌を舞台に自宅分娩の家庭を回り続けています。

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