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更新日:2013年3月1日

19.宿場町という時代もありました

 明治14年(1881)、軽川駅が開設されました。それに伴い、ここを起点として石狩・小樽・札幌へと人や物が頻繁に動き始めるようになりました。
 駅近くを通る旧国道は、海運の拠点である小樽と、開拓使の本府のある札幌を結ぶために、明治6年(1873)「千歳越新道」として開かれたもので、一般に「軽川街道」と呼ばれました。軽川駅そばから、この軽川街道両側に商店街は発展していきました。札幌と石狩、小樽を結ぶ物資輸送の中継点である軽川で、さまざまな業種の店がここに住む人々の暮らしを支え続けてきたのです。

■駅前旅人宿

 駅南口前にある船木旅館の誕生は、今から120年ほど前の明治 8年(1875)ころ。船木福三郎(ふなきふくさぶろう)さんによって、石狩・手稲通と軽川街道の交差する現在の回転寿司「日本海」辺りで始められ、その後、明治14年(1881)に軽川駅ができたとき、現在地に移転してきました。井桁に一の字「旅人宿」の看板を掲げた建物は、かやぶき屋根、中廊下でつながった平屋建ての2棟。中庭の池にはコイが泳いでいるような広く立派なものでしたが、明治39年(1906)7月10日の大火で消失し、その後2階建てになりました。昭和19年(1944)、41年(1966)の商店街の大火では、火の手は迫ったものの危うく難を逃れています。
旅人宿の看板が時代を感じさせます。明治39年の船木旅館(船木宏通さん所蔵) 建物にも変遷があったように、旅館に泊まったお客さんも時代と共に変化しました。戦前は本州からの行商人や、石狩のサケ、銭函沿線のニシンを商う人々に利用されました。中でも目立ったのは富山の薬屋さんで、五、六人の人達が春秋、それぞれ1月くらいの間、ここを拠点に列車を利用して滝川、倶知安方面まで足を延ばして行きました。そのころは 柳行李(やなぎごうり)をしょい(背負い)歩いての行商でしたが、それが自転車となり、原付自転車、バイク、ワゴン車と変化していきました。「昔おじいさんに連れられて来ていた高校生の薬屋さんは、67、8歳になった今も元気にここにやって来るんで す」と4代目の宏通(ひろみち)さんは話します。戦時中は、日本石油、手稲鉱山の関係者が増え、鉱山の盛んなころは勤務明けの人達が多く利用していました。女性客などはいない時代で、年1回鉱山技師の夫婦が泊まったのが珍しいくらいでした。また変わったところでは昭和23年(1948)から28年までの間ころ競馬場(現小樽カントリークラブ旧コース辺り)があった時には予想屋さんが、そして「手稲まつり」のころは旅芸人、有名な浪花節語り、興行師なども泊まりました。
 手稲鉱山や日本石油製油所でまちがにぎわっていた昭和7、8年ころから25、6年ころまでは、船木旅館のほかに藤の湯、目黒商人宿、緑荘、手稲山荘と五軒もの旅館があったそうですが、今は船木旅館だけになりました。

■街道筋の風景

昭和初期の手稲商店街 大井理髪店の2代目、大井勝見(おおいかつみ)さんが学業の傍ら理髪業の修行を始めたのが大正11年(1922)12歳の春でした。大正15年(1926)支店の店長として、ハサミを握って78年、今も現役です。「終戦当時の床屋代は40から45銭でした。戦中の丸坊主の反動からか皆おしゃれになりましてね、私も技術研究を重ねました」
 手稲にただ1軒の大井理髪店の得意先は、手稲区全域と西区西町(旧上手稲)や石狩方面の人々。農作業などの後で街に来る人が多かったので、閉店が夜10時を過ぎることが当たり前でした。
 札幌へ遊びに行くときは、皆髪を刈ってから出掛けましたが、 樽川にあった極東煉乳(れんにゅう)で働く人の中には、大井さんの店に服と靴の着替えを置いている人もいました。仕事が終わるとすぐに馬に乗って理髪店に直行し、整髪の後置いてある服に着替えて、さっぱりとして札幌へ出かけて行きました。このころ、商品の仕入れなどは主に小樽からでしたが、遊びは札幌だったようです。
 現在、北央信用組合のある場所で、高校生までの多感な時期を商売に精を出す大人たちの姿を目にしながら成長した西野卓三(にしのたくみ)さんは、昭和8年(1933)に生まれました。お父さんは鉄道に勤め、お母さんは布団の打ち直しをしていました。「リヤカーや馬で布団を運んで来ますが、ノミやシラミの多い時代で持ち上げるとノミが跳ね、シラミが歩きました」と卓三さん。
 母の手伝いの傍ら、軽川でドジョウやゴダッペを採ったり、廃材で竹馬を作ったりしてよく遊びました。おはぎが塩味という砂糖のないころで、イタヤの木に傷をつけて樹液の甘味を楽しんだりもしました。家の向かい側に松の湯があり、灰の中に釘などの金物が混ざっていることがあります。それを雑品屋へ持って行くと五銭もらえました。この5銭で「おやき」が3個買えました。突然にやってくる「幸福の時」でした。
 9月15日は手稲神社の例祭で、この日は、大人も子供も祭りを楽しみました。祭り行事の1つとして、勝ち抜き相撲がありました。相撲が強かった卓三さんは、勝ち進むにつれ景品の学用品が増えていきました。
大正末ころの手稲本町の街並み。駅前に広がるこのような風景が軽川と呼ばれていました

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