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更新日:2013年3月1日

16.手稲にはスキージャンプの種がまかれている

■手稲からジャンプ台が消えた

 手稲中学から山側に少し登った辺りに、かつて手稲のゲレンデスキーの中心となっていた、丸山スキー場がありました。そこにはジャンプ台があり、手稲中学の生徒が練習に使っていたほか、石狩管内の中学生大会にも使われました。
 そのジャンプ台は、当初、丸山スキー場の小樽側の斜面に、中学生の勤労奉仕で斜面を掘ったり土を盛ったりして作られたものでした。昭和37年(1962)に自衛隊延べ400人を動員し30m級の本格的な台が建設されました。その後、札樽自動車道が建設されスキー場を横切ることになったため、南側の住宅街へ向かって飛ぶような形で移設されることになりましたが、南斜面は雪質の変化が激しく、雪が解けるのが早いため、使われることもなく眠りに付いてしまいます。
 丸山スキー場のジャンプ台が盛んに使われていた昭和20年代・30年代、スキージャンプは手稲の少年たちの心を、確実に捕らえていました。まちのあちこちに小さなジャンプ台を作り、飛距離を競い合いました。そんな少年たちの中から国体選手が生まれるなど、優秀な選手が育っています。

■ジャンプ台と呼ばれる丘

 わが国でスキージャンプが始まったのは大正5年(1916)、北大の遠藤教授が北欧留学から帰り、ジャンプ競技を学生に説いたのがきっかけといわれています。その後、遠藤教授と北大スキー部の学生たちは仮設のジャンプ台を作り、ジャンプ競技の研究を始めます。昭和6年(1931)には、東洋一といわれた大倉山ジャンプ台が完成しています。
 現在、稲雲高校がある場所は、昔「ジャンプ台」と呼ばれていました。そこにはアプローチをやぐらで組んだジャンプ台があり、その名残でジャンプ台が無くなった後もしばらくそのように呼ばれていたのではないかとささやかれていました。
 実際にはやぐらを組んだ台はありませんでしたが、戦前にジャンプの練習をしていた場所ということですので、早くから手稲のジャンプ陣は動き始めていたようです。

■手稲のまちはジャンプ場でいっぱい

 手稲は手稲山のふもとに開けたまち、まちの至る所に坂がありました。子供たちは、ジャンプ台に適した斜面を見つけては雪で台を作り飛んでいました。
 手稲神社と弥彦神社(現在の日石三菱(株)手稲アパート付近、手稲本町2条5丁目)境内に作られていたジャンプ台は初心者向けです。その他、竹内山(現在の手稲中央小学校の裏辺り)、田巻山(竹内山の上辺り)、藤川山(田巻山の上辺り)にもジャンプ台が作られていました。それぞれの台ごとに自然とグループができ、競い合っていたといいます。
 それらのほかに、本格的な練習やまちの大会が行える規模のジャンプ台が秋葉山(手稲本町6条3丁目の辺り)にあり、その山に三角点があったことから三角点の台と呼ばれていました。
 昭和35年(1960)には手稲中央小学校のグラウンド土手に、体育館建設中の建築会社にお願いし、小さなジャンプ台を作ってもらったという記録も残っています。

■ヒロシさんを目指せ

高橋弘さんの大学時代のジャンプスタイル(昭和26年)。高橋さんは17歳のとき初開催の冬の国体選手でした 手稲町誌によると、昭和11年 (1936)ころ、乙黒秀秋(おつぐろひであき)さんが複合選手としてオリンピック候補強化選手になったとあります。
 それ以降も、手稲から優秀なジャンパーが数多く飛び立ち、大倉山を始めとする全国の舞台で活躍しています。
 昭和23年(1948)、初めて行われた冬の国体に北海道代表としてジャンプ競技に参加した、高橋弘(たかはしひろし)さんもその1人です。現在でいう高校生のときのことですが、高橋さんの国体出場をきっかけに、手稲の少年たちのジャンプ熱は一気に上昇しました。
 後に大倉山を飛ぶこととなり、現在手稲スキー協会で活躍してい る田邊安徳(たなべやすのり)さんや秋葉信夫(あきばのぶお)さんもその中の1人でした。
毛糸の帽子に手袋、セーター、木製の板に皮の靴という装備でした まちのジャンプ台で頭角を見せてきたジャンパーたちは、自然と高橋さんと行動を共にするようになっていきます。コーチがいるわけではありません。高橋さんのジャンプやほかの仲間の技にヒントを得ながら練習し、上達していきました。

■木のトンネルの中を飛ぶジャンプ台

パラダイスヒュッテはその名のとおり楽園でした(前田小学校刊「郷土誌まえだ」) 手稲山にはパラダイスヒュッテと呼ばれる山小屋があります。現在のものは平成6年(1994)に元の位置から西に400m移動し再建されたものですが、もともとは大正15年(1926)に北大スキー部が山スキーの拠点の一つとして建てたものです。そのヒュッテの上手の斜面にジャンプ台にちょうど良い場所があり、北大生らはそこに台を作り飛んでいました。
 そのジャンプ台の情報を得た高橋さんは、初め先輩たちと練習に行っていましたが、いつしか、同年代の仲間や後輩たちの先頭に立ってパラダイスヒュッテに出掛けるようにになっていました。高橋さんの号令で少年たちは宿泊日数分の米と毛布1枚をリュックに詰め、ジャンプ用のスキー板に縄を巻きつけ一週間ほどの合宿に出掛けるのです。 多いときには10人くらい集まり、手稲神社の辺りから竹内山、千尺高地を通りヒュッテまで3、4時間かけて登ります。
子供たちだけで煮炊きをしながら、山の上で過ごします パラダイスヒュッテのジャンプ台といっても自然の地形そのものでしたから、到着してから雪を踏み固めるなど飛べるようになるまではかなりの時間が掛かりました。しっかり整備しないとケガのもととなるので、はやる気持ちを抑え全員で汗を流します。「木のトンネルの中を飛んでて行く感じ」という林の中に作られたその台は、雪が解けにくく風の影響を受けることがあまりなかったといいます。
 それぞれが高校や大学に進学するにつれ、学校での練習が主体となっていきましたが、シーズンオフとなる春休みに、パラダイスヒュッテで合宿しシーズンを締めくくるのが恒例となります。ある年の春、パラダイスヒュッテの周りに大きな熊の足跡を見つけ、練習を切り上げ大急ぎで山を下ったこともありました。
 パラダイスヒュッテとそのジャンプ台には当時の手稲っ子ジャンパーの思い出がたくさん染み込んでいます。

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