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更新日:2013年3月1日

15.手稲鉱山~鉱山の泣き笑い

 手稲山は、かつて金銀銅などが採れる鉱山として、活気にあふれていました。最盛期には手稲の人口の約4分の1が、鉱山周辺に集まり、鉱山村といわれるほどでした。産金量全国2位を誇った時期もあり、手稲鉱山は、手稲だけでなく、わが国の発展をも支えていたのです。

■鳥谷部弥平治が発見

 明治中ころ、星置川で砂金が採れたといいます。そのため、手稲山に金が眠っているという話が飛び交っていました。
 明治20年代半ば、星置で農業をしていた鳥谷部弥平治(とりやべやへいじ)が、偶然、金鉱脈を見つけます。弥平治は本格的に金を掘りたいと、道庁に金の試掘を申し出ます。全財産を掛け、明治40年(1907)ころまで現在のルカ病院のあたりを中心に探していましたが、よい成果を得られず断念しています。その後、大正に入り、元道庁の技師、石川貞治が鉱業権を取得、開発に乗り出します。このとき、手稲鉱山と命名。滝ノ沢川上流の黄金沢(こがねざわ)と呼ばれるあたりの金鉱を見つけ、一時期成功しますが、その後の鉱脈探しに失敗し、資金難となり早々と閉山に追い込まれます。

■広瀬省三郎が本格操業へ

 鉱業権はその後転々とし、鉱山を始めようとする人が現れないまま、昭和を迎えます。
 昭和3年(1928)に広瀬省三郎(ひろせしょうざぶろう)がその権利を得、翌年、再び探鉱が始められました。滝の沢川上流付近を広い範囲にわたり探した結果、余り良い質ではないものの、豊富な量の鉱石を採掘できることが見込まれたため、選鉱(せんこう)場を建設しました。しかし、予想どおりには金が取れなかったため、その建設から半年ほどで運転を中止します。
 その後、鉱石のまま売ることにし、採掘を続けたところ、思いのほか順調に進み、金の価格の高騰や、国の産金奨励策などが重なり軌道に乗り始めます。
 それまで掘り出した鉱石は荷馬車で運んでいましたが、その産出量が著しく増えたため、昭和9年(1934)軽川駅(現手稲駅)近くまで、鉄索(ケーブル)を引き運ぶようになりました。昭和6年(1931)にはわずか35トンほどの出鉱量でしたが、毎年大幅な伸びを見せ、昭和9年、約3万4千トンとなっています。

■三菱鉱業が参入、最盛期へ

手稲鉱山の作業の様子を伝える、産金時代の絵はがき(茂内義雄さん所蔵) 昭和10年(1935)手稲鉱山の経営に、いよいよ三菱鉱業が乗りだします。その年の1月、三菱鉱山は広瀬と共同経営の契約を結び、12月には全権利を買収しています。
 翌年までは、金がたくさん含まれている鉱石が豊富に採れましたが、その後、次第に品位低下の兆候が現れました。そのため、昭和12年(1937)現在のテイネオリンピアの裏辺りに小規模な選鉱場を建設。鉱石から金などが多く含まれている部分を分けた後 に、香川県の直島(なおしま)精錬所へ送るようになりました。
 昭和13年(1938)から国策に従って「緊急産金操業」に入り、翌年11月、月当たり5万トンを処理することができる選鉱場が完成。加えて、鉱石を山奥の鉱脈から選鉱場まで運ぶため、4kmに渡る地下トンネル (星置通洞(つうどう))も掘り、大増産態勢の準備が整いました。
東洋一と言われた選鉱場(茂内義雄さん所蔵) 昭和15年(1940)から17年(1942)までの出鉱量は約185万4千トンに上ぼり、 東洋一の金山、鴻之舞(こうのまい)鉱山に次ぐ地位を築いていました。

■国策転換により規模を縮小
 産金政策により大増産態勢を敷き、国内で1、2を争う金山として君臨してきましたが、昭和18年(1943)4月、国の政策が急転換し、全国の金山が整理されることになりました。手稲鉱山も金山としての操業は停止されましたが、銅も豊富に採れたため、銅鉱山として再出発することになりました。操業規模は月3万トンに縮小、人員も削減され、約340人が他の鉱山や炭鉱に移されました。
 銅鉱山として操業をすることになりましたが、もともと手稲鉱山の粗鉱は金銀銅を含むものでしたので、銅だけ選び他を捨てたわけではなく金の生産も引き続き行われました。
 終戦後、操業成績が低下してきたため、生産計画の見直しを迫られます。従業員の生活も困窮を極めました。道内各地で起きていたストライキに触発され、昭和21年(1946)、賃上を要求し約500人の従業員がストライキをしました。しかし、この鉱山の操業を半ばあきらめていた会社には相手にされず、何の成果もなかったといいます。
 その翌年、三菱鉱業は操業規模をさらに縮小し、従業員も3分の1に減らすこととします。それ以来、出鉱量が激減し、昭和24年(1949)には2万トン台まで落ち込み、併せて銅の価格差補給金撤廃という大打撃を受け、昭和25年(1950)秋に休山状態に追い込まれています。
●三菱鉱業時代の手稲鉱山操業概況

経営者 年代 創業方針 粗鉱生産量 品位 備考
(t) 金(g/t) 銀(g/t) 銅(g/t)
三菱鉱業 昭和
10~12
探鉱時代 40,000
(3年)
8.5 74 0.10 昭和10年1月広瀬氏と探鉱契約。12月全権利を買収。昭和12年三ッ山地区に5千t/月処理の選鉱場建設。
昭和
13~14
産金時代 141,000
(2年)
7.5 69 0.19 星置坑口より延長4kmの電車坑道掘穿工事を着手。星置坑口付近に5万t/月処理の選鉱場建設を着手。
昭和
15~17
1,854,000
(3年)
2.0 40 0.12 上記工事を完成。 5万t/月操業に入る。
昭和
18~20
産銅時代 1,007,000
(3年)
2.5 54 0.32 国策に沿って産金から産銅に切り替える。 昭和20年8月終戦。操業成績低下。
昭和
21~24
縮小時代 160,000
 (4年)
2.5 252 0.98 生産計画縮小。 昭和24年末で操業を停止する。
昭和
25~28
残鉱探掘
時代
1,000
 (4年)
16.0 252 4.70 選鉱場でその他の生産設備を撤収する傍ら従業員20人程度で高品位残鉱の手掘採掘 を行う。
  荒川 昭和
29~31
2,000
 (3年)
31.5 420 3.12 残鉱掘りを引き継いだが高品位鉱が枯渇し、 経営が行き詰まる。昭和31年12月末で千歳社交替。
  千歳 昭和
32~46
小規模
操業時代
93,000
 (15年)
7.2 135 0.66 通洞坑の運搬系統を整備するとともに、小選鉱場を設置して低品位鉱の活用を図る。 昭和46年閉山撤収。
合計 3,298,000 2.4 51 0.28  

■手稲鉱山の終えん

 その後、従業員20人程度で、選鉱場や変電所などの設備を撤収する傍ら、高品位の残鉱を手掘りにより採掘しました。昭和29年(1954)撤収作業を終え、荒川鉱業へと経営を譲ります。
 残鉱掘りを引き継いだ荒川鉱業は、これまでにない高品位の鉱石を掘り続け、産金量を一気に引き上げ、経営も好転しかけますが、その後すぐに高品位鉱が底を尽き経営に行き詰まります。
 昭和32年(1957)から千歳鉱業が経営に乗り出し、昭和36年(1961)に小選鉱場を設置、低品位鉱の活用に努めました。小規模経営ながら昭和39年(1964)に7万2千グラムの産金量に達し、終戦直後の水準に戻しましたが、その後、下降線をたどっています。
 手稲町は、町を支えてきた鉱山の存続を願い補助するなどしていましたが、昭和42年(1967)の札幌市と手稲町の合併を機に、鉱山付近にも都市化の波が押し寄せ、千歳鉱業は手稲鉱山の操業継続に限界を感じ始めます。
 昭和46年(1971)今が潮時という判断から手稲鉱山は完全閉山となり、約80年にわたった歴史を閉じました。

■鉱山の発展でまちができた
鉱山の社宅と生活の様子。これも絵はがき 広瀬省三郎の経営が順調となり始めたころ、鉱山関係者が山の中に住宅を構えるようになり、鉱山周辺の人口が増えだしています。その後、三菱鉱業の時代となり最盛期を迎えると従業員数は約2千人に膨れ上がります。星置川や滝の沢川に沿って1,200戸あまりの社宅が建ち並び、学校、病院、郵便局、交番も建設され、鉱山地域だけで1つのまちが形作られていました。昭和11年(1936)の手稲村の人口は約6千人でしたが、昭和16年(1941)には約1万3千人と、2倍以上に増えています。この地域が 金山(かなやま)と呼ばれるようになったのもこのころのことです。

■食料の確保

 終戦間もないころ、配給のみでは生活できず、小さな畑で芋を育てていたそうです。また、港に鰊(にしん)が大量に揚がったのを見て、何人かで銭函、張碓まで歩いていき、 1杯(100匹程)100円くらいの鰊を買い込んで、それを背負って帰ってくることもありました。
 鉱山のふもと、現在の星置に鉱山の水田があり、鉱山で雇った農民が鉱山の従業員用の米を作っていたということです。

■鉱山労働者の1日

最盛期の面影を残す昭和23年の手稲鉱山(国土地理院撮影) 渡辺定雄(わたなべさだお)さんは昭和28年(1953)から40年(1965)まで手稲鉱山で削岩作業員をしていました。赤木強(あかぎつよし)さんもほぼ同時期に手稲鉱山で支柱作業員をしていました。鉱山で働いていたころはルカ病院の近くの鉱山住宅に住んでいたそうです。そのころは2千人以上の職員がいたといわれる最盛期に比べて規模がかなり縮小されており、坑内作業員は30から40人程度でした。
 抗内作業員は毎朝八時に星置通洞から坑内に入り、トロッコに乗って2km以上先の鉱石を掘り出す「切羽(きりは)」までいき、それぞれの分担に就く。発破をかけて鉱石を運び出す、その繰り返しです。坑内の休憩所で昼食を食べ夕方四時まで働く。2時間ほど残業することもあったといいます。その後まっすぐ家に帰り、浴場に行って1日の汚れと疲れを洗い流す。これが、鉱山労働者の1日と渡辺さんと赤木さんは話します。
 このころは基本的に朝8時から夕方4時まで坑内で働く、いわゆる1番方のみでしたが、選鉱所は24時間稼動していました。当時の坑内は鉱石を掘り出した時に大量の粉じんが舞い上がり、マスクをしていてもすぐ詰まってしまって使い物にならなかったといいます。当時の坑内のこんなエピソードがあります。昔から坑内の明りにはたいてい力ンテラが使われていました。カンテラは酸素が無いと消えてしまうため、酸素の有無を知ることができましたが、電池に切り替わった後はそれが分からないため、危険な昔の坑道には立ち入らなかったといいます。
 鉱山の仕事は命懸けの、厳しいものでした。

■鉱山のお祭り

 1年に1度、山神を祭ってある金山神社で鉱山労働者が参加してお祭りを行っていました。戦後間もないころ、金山神社は乙女の滝の向い側にあり、毎年6月には手稲神社から神主を呼んでいました。北海道神宮祭も同じころですが、手稲鉱山のふもとでも盛大なパレードが行われたていました。そのため、鉱山労働者の親戚などはこの日に重箱を持って札幌などから訪れ、パレード見物を兼ねて鉱山労働者に会いに来たということです。
 その後、鉱山の操業規模が縮小され金山神社がルカ病院の上の辺りに移ってからは、盛大な催し物などはなく、お神酒をいただくなどし、過ごしていました。

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