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更新日:2013年3月1日

14.手稲空襲のつめ跡

14.手稲空襲のつめ跡~日本石油北海道製油所

■空襲で3日間炎上

 硫黄(いおう)島に続いて沖縄でも日本軍が壊滅し、戦争もいよいよ末期状態になった昭和20年(1945)7月14日、えりも岬南東海上に接近していた空母群から発進した艦載機が、八波にわたって全道各地を攻撃してきました。攻撃は翌15日の夕方まで続き、攻撃された市町村は68で、1,900人以上が死亡し970人以上が負傷しました。
 手稲町が攻撃を受けたのは15日で、標的にされたのは軽川駅北側の日本石油の製油所でした。貨物線に並んで大型4基を含めて大小15基のタンクが建っていたほか、大量のドラム缶が充てんされたまま野積みされていました。
 その日の午後3時50分ころ、不意に銭函方面からグラマンF6Fヘルキャット2機が飛来してきました。手稲町上空を旋回したと思うと、手稲山の方角から低空で製油所めがけて突っ込んできました。激しい機銃掃射とともに貯油タンク群に爆弾数発が投下されました。いずれも直撃は免れましたが製油所構内で爆発し、地面に直径7、8m、深さ1.5mほどのすり鉢状の大穴を作りました。しかし、誘発火災でタンク7基が炎上、製油所建物の1部に延焼しました。戦果を見届けたグラマンF6Fはこのあと石狩方面へ飛び去りました。その日駅構内で貨車の入れ替え作業をしていた軽川駅員の宮川定一(みやかわさだいち)さんは、空襲の様子を次のように語っています。
 「防空ごうがなかったので貨車の下に潜って機銃掃射から逃れたが、爆弾が落とされたときは恐ろしかった。ものすごい振動で、駅やこ線橋の窓ガラスが粉々になったんだから」
 タンクは3日間にわたって炎上し続け、札幌からも応援の消防車が出動してきましたが、燃え尽きるまで手の付けようがありませんでした。
 空襲の翌日から町内の青年団員と荷馬車が動員され、構内に野積みされていたドラム缶の運び出しが始まりました。軽川国民学校高等科を卒業後、家事の農業に従事していた前田の加賀谷正美(かがやまさみ)さんも動員された1人です。
 「ドラム缶を製油所から離れた畑に馬車で運んで、穴を掘って隠すんだけど兵隊がそばに付きっきりだった。愛国351工場という軍需工場だったから軍の管理が厳しくて、製油所へ入ったのはそのときだけだった。だけど、日石の独身アパートの所に高射砲陣地があったけど、空襲のときには一発も撃たなかったな」

■道内産の原油を精製し 道内・樺太各地へ供給

 製油所が建設されたのは明治45年(1912)5月ですがその設備は、重油分とガソリン分を連続的に蒸留分離する日産70キロリットルの原油蒸留製造一式のほか、日産10キロリットルの再蒸留釜一基、日産30キロリットルの灯油・軽油洗浄製造1基、日産10キロリットルの機械油洗浄製造1基、さらに日産500缶の一斗缶製缶製造1基などで、ほかに貯蔵タンク20基、倉庫4棟、荷造り設備一棟が付帯施設として建設されました。まさに、月産処理能力2,100キロリットルという道内唯一、最大の石油精製施設でした。
 石狩川河口北岸の高岡地区を中心とする石狩油田の開発は明治36年(1902)ころから始まっていましたが、本格的な開発は日本石油が事業経営に乗り出した明治44年(1911)以降です。日本石油では新たに採油現地に石狩鉱場を、軽川駅北側には製油所を設けました。また、鉱場 から製油所までは花畔(ばんなぐろ)、花川を経由して2インチの送油管二条を埋設して流送しましたが、樽川通の方から製油所へ取り込んでいたようです。その延長は25kmで、途中の石狩川は架空線で横断していました。
 製油所竣工後は石狩油田産のほ か、勇払郡厚真村の振舞(ふれまい)、軽舞(かるまい)の両油田産と宗谷郡増幌(ますほろ)村の増幌油田産の原油がタンク車で軽川駅に輸送され、これも精製処理をしています。その精製種類は揮発油、灯油、軽油、機械油、重油などで、供給地は北海道内はもちろん、樺太各地にまで及んでいました。こうして年間6千から7千キロリットルを製造処理していたのですが、年間継続作業をするには原油産出高が不足なために冬季間の製造作業を休止し、4月から10月にかけて1年分の精製作業を集中して行うようになりました。従業員は新潟や秋田の製油所からの派遣で、最盛期で40人ほどでした。
手稲駅北側に広がっていた日本石油北海道製油所全景(前田小学校刊「郷土誌まえだ」)

■大量処理の時代となり 精製作業を休止

 戦後は産出油減少などの問題を抱えて操業を続けてきた軽川の製油所でしたが、戦災で操業を休止していた横浜製油所や下松(くだまつ)製油所が復興し、輸入原油の大量処理が可能になりました。このため、小規模製油所の整理が始まり、北海道製油所の精製作業は昭和25年(1950)6月限りで休止し、北海道産出油はすべてタンク車で秋田製油所へ輸送されることになりました。追い打ちをかけるように石狩油田の産出高も年々減少し、昭和35年(1960)には手稲駅発送の原油もなくなりました。
 北海道産出油精製の使命を終えた製油所の建物の1部は払い下げられ、区内の農家などで活用されたということですが、跡地には現在区役所や商店街が建ち並び、当時をしのばせるものはありません。

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