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更新日:2013年3月1日

13.手稲駅とその周辺

 昭和9年(1934)から48年間、手稲駅は手稲山にあったパラダイスヒュッテを模して作られた丸太作りの建物でした。駅舎としての役目を終えた後も喫茶店として利用され、平成11年(1999)までその姿を残していました。65年にわたり手稲を見守ってきた丸太作りの駅舎は、めまぐるしい変化にさぞかし驚いていたことでしょう。

■丸太小屋の駅のころ

 駅周辺の昔の様子は、今からは想像もできないほどのどかなものでした。駅の北側は田や畑・牧場が広がり、わずかな農家が点在するほかは自然のままの林や谷地(やち)、南側は早くから開けており、商店が軒を並べていました。このころの自然の豊かさは、駅を建てた直径30cm以上にもなる松や、ホームの柱として使われた直径25cm程のオンコ(イチイ)が手稲山から切り出されたものだったということからもうかがえます。

■冬と駅

手稲駅のホーム 豊かな自然は、人々に多くの恩恵を与えてくれましたが、ときには大変厳しいものともなりました。
 昭和20年代半ばころまで手稲から石狩方面へ向かうには馬車が使われていました。その後、ようやくバスに代わっても冬の雪には勝てず、積雪期には馬そりを運行することがしばらく続きました。手稲駅から石狩の渡船場まで夏場は約1時間の道のりを、幌も無い馬そりで、3、4時間。乗客たちは毛布をかぶり小さな火鉢を囲んで耐えたそうです。
 冬の手稲駅の風景といえば、スキーを持ちリュックをかついだスキー客です。大正の末ころから手稲山は山スキー好適地として紹介され、駅はスキー客でにぎわっていました。当時は今のように手軽にスキーを楽しめるわけではありません。スキーとお弁当を背負って、駅からシール(アザラシの皮でできた滑り止め)や荒縄を付けたスキーで手稲山を目指します。
 特に手稲山を中心に活動していた北大スキー部の学生たちと駅員さんたちとは顔見知りとなっていたようです。
 雪が解けると、風景と共にお客さんの層も変わり、札幌から大きなかごを背負ったワラビ採りの人たちが、続々と駅に降り立ちます。駅の北側は、足元一面が埋め尽くされるほどのワラビでいっぱいでした。

■手稲駅のにおい

 手稲駅は通勤・通学者を中心とした旅客のほかに貨物も扱っていました。送り出していた貨物は、手稲鉱山から掘り出された鉱石、泥炭、段ボール、牛乳などでした。
 なかでも手稲駅の北側の谷地から取れる泥炭は、そのころ手稲のほとんどの家庭で暖房の燃料として利用されていましたので、駅周辺は泥炭をたく独特なにおいでいっぱいでした。昭和24年(1949)に 軽川駅に赴任した三沢幸男(みさわゆきお)さんは、「初めて手稲駅に降りたとき、そのにおいにびっくりした」と手稲駅の第一印象を話します。手稲駅から送り出された泥炭は、余市でウイスキーをいぶすために使われていたということですから、いわばまち全体がいぶされていたようなものだったのでしょう。
 このころは行商の人たちも駅の風景の1つでした。小樽方面から朝1番の列車で魚の干物を背負ってきては、農家を回って売り歩きます。昭和20年代には、まだ、現金収入の少ない農家もありましたので、魚の代金を作物で渡すという物々交換もあり、帰りは米や芋、豆などで重くなった魚かごを背負って帰っていきました。時には売れ残った干物やかまぼこを駅に差し入れしていく人もいたとのことで駅と人の交流が親密だった様子がうかがえます。この行商も、まちに店が増えたり、車が普及したりで次第に消えていきました。

■まちの社交場

山小屋風の駅舎はスキーのまち手稲の顔でした このころは、列車の本数も少なく駅の風景ものんびりしたものでした。乗り降りする人の数も限られていて、駅員さんと顔見知りのお客さんも多く、駅を離れてまちを歩いていてもあいさつを交わすほどです。
 まちに居酒屋などがなかったころ、駅長室に、お医者さんやお坊さん、駅かいわいの商店主など、まちの人々が申し合わせたふうでもなく集まってはお酒を酌み交わし、談論風発(だんろんふうはつ)といった様子でした。たまに町長も顔を見せていたということです。駅長室の酒盛りを横目にしながら、駅員さんは通常どおり仕事をするというのが日常でした。
 駅のこ線橋が人でにぎわうこともありました。それは夏です。今も毎年行われている豊平川の花火大会が、線路のかなたに見えたというのです。こ線橋は特等席でした。その反面、花火大会の日に勤務にあたった駅員さんは大変だったようです。「『後片付けしてってよ』というと『うん』と答えるんだけれども、終わった後行ってみるととっちらかっているのさ」。 当時の駅員、加賀谷正美(かがやまさみ)さんは笑顔で思い出を語ります。
 のんびりした時代だったとともに、まちの人たちが「オラガ駅」として軽川駅(手稲駅)に親しんでいた様子がうかがえます。

■電車がやってきた

 昭和40年(1965)、車両基地ができて普通列車の運行のほかに札幌に向けて特急列車の車両を送り出す拠点駅としての役割も加わり、長距離列車の運行のためには札幌ばかりではなく、東京とも連絡を取り合いながらの配車作業が続きました。
 さらに昭和43年(1968)には、滝川、小樽間が電化されました。
 それまで、30分に1本、夜ともなれば1時間に1本とのんびりペースだった列車の運行が3、4分に1本と目の回るような忙しさになりました。
 昭和47年(1972)の冬季オリンピック札幌大会を境に札幌の街は大きく発展しました。手稲も例外ではありません。乗降客も爆発的に増え、のんびり会話をする余裕も失われていき、古き良き時代が終わりを告げます。

■駅が変わる

 昭和57年(1982)、駅も手狭になり、長く親しまれてきた丸太の駅舎から、橋上駅舎へ。狭い土地の有効活用と、増え続ける駅北側の人たちの便利を図るためでもありました。それまでは、北側から列車を利用するには、駅の東にあった踏切を渡って、ぐるりと遠回りをしなくてはならなかったのです。
 急激な人口の増加と街並みの近代化を見届けてきたその駅舎も、21世紀を前にバトンを手渡すことになりました。新世紀に誕生する新しい手稲駅はどんな風景を見ることとなるのでしょうか。

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