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更新日:2013年3月1日

7.今とは違う日常

■泥炭の赤水を木炭と砂で浄化

 と共に手稲に移住してきた久木(ひさき)チヨさんは、大正4年生まれの84歳、従妹の吉田ミヨさんは大正13年生まれの75歳です。
地下水のくみ置き方 2人とも口をそろえて「一番大変だったのは水事情」と話します。生活に欠かすことの出来ない水ですが、曙、前田地区の地下水は泥炭地のため、真っ赤でそのままではとても飲料水として使用できず、より良い水を得るために工夫がありました。
 まず木樽の底に木炭を並べ、その上へ海岸の荒砂を敷き詰めます。そこへ井戸からの赤水をくみ入れ、もう一つの樽にためて使ったそうです。
 この頃から、木炭の有害物質を吸着する特性と効果を利用して、飲料水の浄化をしていたのです。しかし、この装置も半年くらいで砂がカナ気(水の中に溶けて含まれる鉄分、赤黒のシブ)でコチンコチンに固まり、水通りが悪くなるので、取り替えなければなりませんでした。荒砂は銭函の海岸から汽車に乗って運んだといいます。
 取り替えに必要な砂の量は、吉田さんの家で、2往復して運ばなければならなかったといいます。このように、大変な重労働なのですが、この仕事は女性が負わされていました。道中、砂からしみ出した海水が背中をぬらし「そりゃあ、もうぐしょぐしょになって、気持ちが悪くてサー」と吉田さんは話します。
 水は本当に貴重だったので、お風呂には一ヶ月に1度くらい、それも、夏場にドラム缶で作った五右衛門風呂に入っていました。後は川に入るか、拭く程度で、冬場は、住居が寒いので家で風呂を沸かすということはなかったそうです。井戸のつるべも凍り、折り切れることも幾度かあったといいます。

■昔の冠婚葬祭

おしゃべりとおひるの会におじゃまし、昔の苦労話をうかがいました。中央左が吉田ミヨさん、中央右が久木チヨさん 久木さんは21歳の時、山口村へ嫁ぎました。
 このころの冠婚葬祭は、親族や近隣の人たちと自宅で行っていました。日ごろから、人と人との関係が密で、互いの不足を補いながら生活していた時代でした。このようなときも、手伝いはもとより、食器や座布団などを持ち寄り、夏の間に乾燥させておいたワラビと、わずかな揚げの入った煮しめ、冷ややっこ、煮豆などでおぜんが用意されました。
 葬儀のときお坊さんは銭函からお願いしていました。皆で死花花(しかばな=葬儀に用いる造花)をつくり供えました。生花は使われなかったそうです。
 お棺は四角の座棺で、火葬場までは馬車で運び、雪道などで、行くことができないときは皆で担ぎ、精一杯心を込めて送ったそうです。
 不便で我慢のいる時代。それを知恵と工夫で乗り越えていました。
死花花の作り方

お葬式のこと ~富丘在住 末田和夫さんの話から~

 手稲では、昭和6年(1931)くらいまでは、まだ死者は土葬されていました。手稲に火葬場ができたのは昭和17年(1942)です。
 昔は今の寝棺とは異なり、座棺でした。高さ1m20cmくらいのお棺に、あぐらや正座の形で亡くなった人を入れ、みこしのように前後を人が担いで火葬場へと運びました。冬には馬そりに乗せて運びました。火葬場への道は、今のようなう回道路がなく急な坂でしたので、後方で担ぐ人は、両手を高く上げお棺を支えなければならず、大変でした。
 近親者は皆白装束で、白たびにわらじを履いて火葬場へ向かいました。そして帰る時には白たびとわらじは脱ぎ捨ててきたそうです。この白装束はお寺でも何十組か用意し、貸し出していたのではないかということです。
 通夜、葬式については親族の者は一切手を出さず、地域の人々が手伝って用意万端執り行うのが習わしだったようです。地域の人たちが食器や料理を手作りで持ち寄りました。通夜、葬儀、その後始末にと、大体3日間を要したということです。しかし、商売をしている人たちは、何日も休むことができないので、密葬にして1日で済ますこともあったといいます。
昔のお葬式。白装束が正装でした(岡内 義一さん所蔵) こうして、すべてを地域の人たちが協力し合い葬儀が行われていました。このころは、葬儀によってお互いの理解が深まり、地域の連帯の輪がさらに広がることもありました。
 今のように葬儀屋さんに任せることが多くなったのは、昭和50年代になってからです。

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