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更新日:2013年3月1日

6.幻の三十三カ所

 現在の札樽自動車道の山側、富丘6条3丁目に、かつて札幌で屈指の温泉旅館「光風館(こうふうかん)」がありました。この光風館から現在も残っている球徳(きゅうとく)稲荷社の前を通って北海道造林記念碑に至る間の道端に、33の観音様の石像がそれぞれに祭られていたということです。
 冬、こんもりとした雪に埋もれていた石像も、雪解けとともに姿を現し、三十三カ所巡礼の地として多数の人たちが訪れ四季折々の花が供えられていたのでしょう。

■光風館と三十三カ所

 当時この道は手稲山への登山口でもあり、そのすそ野にはスズランの群生地が広がっていました。観音様は、手稲山を目指す登山者、季節の彩りを楽しむ人たちにほほ笑みかけていました。
 その元となったものと思われる西国三十三カ所は、天武天皇の時代(673~686)が始まりとされています。奈良県桜井市にある真言宗豊山派の総本山、長谷寺(西国三十三カ所第八番の札所)の開山道徳上人が、一度死亡したときにえん魔大王から日本国内にある三十三カ所の観音霊場を巡礼すれば滅罪の利益があるので、巡礼を世に広めよと仰せ付けられました。その証拠として石札を渡され蘇生し、兵庫県摂津(宝塚市)の中山寺に納めたのです。その後、花山法皇(968~1008)が夢の中で石札の存在を告げられ、河内(堺市)仏眼寺の仏眼上人を導師として西国三十三カ所を復興させたといわれています。
 西国三十三カ所巡礼は平安時代(794~1192)末期に盛んとなります。その後、江戸時代(1603~1867)に入ると全国各地それぞれの三十三カ所霊場が出現し、一つの山・一寺の境内などに三十三観音を祭るようになり、それらを巡拝することによって西国三十三カ所巡礼と同じ功徳があたえられるという信仰が生まれたということです。
 第二次世界大戦中、光風館は経営が傾き閉鎖に追い込まれます。そのためか三十三カ所を訪れる人も少なくなっていき、加えて観音様をお守りしていた人たちの高齢化も進んでいきました。光風館跡一帯に安置されていた観音様は、いつしか二つの場所に分かれ手稲を見守ることになったようです。

■山の中に埋もれた観音様が

真妙寺で静かに時を過ごす観音様 富丘川のほとりにある真妙寺が開かれた昭和31年(1956) ころ、初代住職加藤浄真(かとうじょうしん)さんが付近を散策しているとき、光風館跡一帯に半ば埋もれた状態で点在していた観音様を見付けました。元の位置に立っていたものは10体もなく、ほとんどが倒れ土に埋もれたり、沢に転げ落ちていたりしていたといいます。地域の人たちの申し出もあり、回収して境内にお守りしようと山の中をくまなく探し始めました。2年ほどかけて20数体の観音様を見つけることができました。傷んでいるものは直し、どうしても見つからなかった分は造り、真妙寺の境内に再現したのだそうです。回収された石像は誰が寄進したのか分からないということですが、現住職の大真(だいしん)さんは「光風館の湯治客が病気全快のお礼に寄進した」という話を聞いたことがあるということです。

■一部は稲穂の祥龍寺に

 開基から100年を超え、手稲で一 番古い稲穂の祥龍寺(しょうりゅうじ)。現在、境内に1番から26番の観音様が祭られています。一番の如意輪観音(にょいりんかんのん)像の台座には大正8年5月寄進とあり12人の寄進者の名が刻まれ、以下25体の台座にも、それぞれに2人から3人の名が刻まれています。それらの観音様は、祥龍寺の檀家(だんか)だけではなく、他宗派の人たちも加わった三十三カ所巡礼講(※1)の人たちの寄進によるものということです。
 理由は不明ですが、初めは光風館周辺と分散して寄進され、それぞれお参りされていたといいます。しかし、現在の手稲本町付近に住む人が多かった講の人たちの年齢が高くなるに従って、光風館周辺のお参りが難しくなっていきました。そのため光風館周辺に安置されていた観音様を祥龍寺に移しお守りすることになったのだそうです。現在ある26体のうちの半数近くが、戦後、光風館周辺から移されたものだということです。
※1 講…神仏を祭り、または参詣する同行者で組織する団体。(広辞苑)

光風館とその周辺

 光風館は、明治25年(1892)に小樽の東幸三郎(あずまこうざぶろう)という人が開業した温泉旅館です。その建物は竜宮城にたとえられるほど豪華なものであったといわれ、国道から光風館までの道路は石畳、その両側は桜並木となっていました。定山渓温泉への交通が便利になるまでは、札幌近郊の温泉地としてにぎわいを見せました。そのため光風館にはさまざまなエピソードが残されています。大正11年(1922)12月、たくさんの日本人が虐殺された尼港(にこう)事件(大正9年)の復しゅうと称し、サハリン沿岸を荒らしまわった海賊船の頭目江連力一郎(えづれりきいちろう)が光風館に潜んでいたことが判明、軽川駅前で逮捕されたという事件がありました。
 また、昭和の初期には徳川喜久子(とくがわきくこ)姫(昭和5年に18歳で高松宮妃となる)が学生のころ、夏休みをここで過ごされたという話などが残されています。
北海道造林記念館の辺りにあずまやがありました 光風館跡付近にある球徳稲荷の登り口から200 mほど行くと、北海道造林の記念碑が現在も残っていますが、昔その記念碑の前にはちょっとした広場があり、あずまやや相撲の土俵があったということです。
 温泉や周辺の環境の良さに目をつけた手稲町は、光風館跡周辺を公園として整備しようとする動きもありました。

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