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更新日:2013年3月1日

4.水田の風景

 昔の農家にとって米というのは特別な作物で、稲作にあこがれのようなものがあったといいます。手稲の大地のほとんどは、稲作に適しているとは言いがたいものでしたが、人々の惜しむことのない努力により、次第に水田が開けていきました。

■切割りからわき出る水

 稲作にとって最も重要なのは水の確保です。手稲では軽川や星置川の水辺から水田が開けてきます。手稲山の山すそを切り崩して造られた、稲穂や星置のあたりの線路下には、手稲山の伏流水(ふくりゅうすい)がわき出ていました。
 「春先に切り割りからわく水は、水温が低く、苗作りが難しかった」 と振り返るのは稲穂に住む吉田恭之助(よしだきょうのすけ)さんです。吉田さんの住宅は現在、国道の山側にありますが、吉田さん一家は昭和21年(1946)まで、線路下の曲長通近くで稲作中心に農業を営んでいました。
 そのあたりの土質は半泥炭地で、田んぼがぬかり、馬を使うことができませんでした。そのため三本ぐわでの田起こしなど、すべて手作業でした。また、そこは低湿地のため、雪解けの時期には毎年のように水害に悩まされたといいます。その土地を離れ、山側へ移転することとなったのは、その水害が大きな理由だったということです。

■星置川の水

 星置川は明治時代、海に向かって右に曲がり新川に合流していましたが、大正時代に水田のかんがいのため、銭函のまちを通り海へ流れるように切り替えられました。そうしたことから、現在のほしみ駅辺りから小樽方面へ水田がずっと広がっていきました。その当時、星置川の川底は水田より高く、豊富な川の水を容易に水田へ流すことができました。
 その星置川の水も、上流に水道の浄水場が完成した昭和34年(1959)以降、人口が増えるのに従って、水田で使うことができる水量が減らされていったといいます。そのころ、星置にも水田を取得していた吉田さんは、「はんこを押すたびに、使える水が減っていきました。でも、まちの発展のためには仕方のないこと」と当時を振り返ります。
前田森林公園のあたりは大規模な水田地帯でした(茂内 義雄さん所蔵) さらに、昭和58年(1983)には治水上の問題から、星置川下流がまっすぐ海に向かう現在のコースに切り替えられたため、川の水を容易に水田へ引くことができなくなりました。川底が水田より低くなったためです。
 そのため、水門を作り水田に水を引くようにしましたが、後にその水門の管理問題が浮上します。小人数で維持してゆくのは難しいと判断した吉田さんらは水利権の放棄を決断します。それ以降、星置川の周囲に広がる水田の姿を見ることができなくなりました。

■来年こそ…

 吉田さんは比較的楽ができたと思えるのは、稲作をやめる前の約10年間だけだと言います。
 朝5時の牛の世話に始まり、田畑から家に戻ることができるのは、いつも夜の7時過ぎでした。春の田植え、夏場の草取りはとてもつらく、腰や手がジンジンと痛みました。秋に刈った稲はニオ積み、はさがけ、杭差しなどの方法を臨機応変に使い分けて乾燥させました。稲が自然乾燥するまでの期間は大根、白菜など畑の作物の収穫、出荷に追われました。
 米の出荷は12月ころ、脱穀、もみすりを済ませ、俵に詰めて手稲本町の政府指定倉庫に運び食糧事務所の検査を受けます。自家製の俵で出荷できたころは、冬の間俵編みに精を出しました。
新川の水を引く揚水路。水の確保が第一でした(茂内 義雄さん所蔵) 平均すると収量は一反(0.1ヘクタール)あたり6~7俵。早生(わせ)の農林20号や中生(なかて)の栄光、やや晩生(おくて)の新栄などの品種を栽培していました。
 稲作に機械が普及しだしたのは、皮肉にも国の減反政策が始まった昭和46年(1971)ころからでした。
 トラクターが入り水田の耕起、代かき、運搬が機械に変わりました。多くの人手を要し6月の札幌祭りのころまでかかった田植えも、昭和50年(1975)ころに移植機が普及するようになって、作業は楽になり、早く終わるようになります。収穫も同様でした。また、有効な農薬の登場により、病気や虫を防ぐことができるようになり、夏の草取りからも解放されました。
 機械化や技術の進歩が進んでも、自然との駆け引きだけは楽をすることができませんでした。冷害や水害で1年の苦労が報われない年を何度となく経験させられました。冷害の年には、稲の成熟が遅れるため、あぜ草や古タイヤを朝まで燃やし霜を防ぎました。 「長い間の稲作りを振り返ってみると、1年1年決して同じことがありませんでした。毎年『来年こそ…』という気持ちで過ごして何10年も過ぎ去りました」。

■時代の流れと共に

 30年ほど前までは、手稲の至る所に稲の穂が実っていました。富丘・稲積・稲穂・星置など、鉄道沿線に点在する田園風景。山口団地の辺りや前田森林公園付近には大規模な水田が造られていたといいます。揚水路の建設や土壌改良など、多くの労力と時間を費やし、水田は造り、守られてきたものです。
 戦後、日本人の主食である米の生産に力を入れ続けてきた日本でしたが、次第に米が余りだし、国は米の減反政策に踏み切ります。
 ちょうどそのころ、手稲は、札幌のベッドタウンとして宅地化が進みはじめました。加えて断続的に続いた冷害の被害もあり、急速に水田が減り出します。
 昭和58年(1983)、春からひどい低温に見舞われ、稲作農家は今までにない大打撃を受けました。そのショックは、都市化が進む手稲で水田を作り続けてきた人たちから、翌年の準備に汗を流そうという気力を奪うには十分すぎるものでした。
 その後一挙に水田は減り、稲が穂をもたげていた大地は住宅地となり、人々が夢をはぐくむ新しいまちへ生まれ変わりました。
 現在、水をいっぱいに蓄えた水田や、稲が青々と輝く風景を、手稲で目にすることは難しくなってしまいました。

<3.市場をにぎわすサッポロスイカ・大浜みやこ | 4.水田の風景 | 5.馬頭観世音の碑>

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