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更新日:2013年3月1日

3.市場をにぎわうすサッポロスイカ・大浜みやこ

山口スイカの取り入れ(昭和47年) 手稲の農作物の代表といえば、スイカとカボチャ。五月、山口地区に延々とひろがるビニールのトンネルが目を引きます。その中で、スイカもカボチャも育っています。美味と評判の高いサッポロスイカと大浜みやこ。手稲の大地と人々の智恵と努力により生み出されているのです。

■円山朝市で余市のスイカと競争

 山口地区のスイカ栽培は、大正5年(1916)に農家の人が自家用として作ったのが始まりです。砂地という条件がスイカの甘みを引き出し、品質の良い物が採れたため、大正の半ばころから販売用に作るようになります。
 昭和4年(1929)から円山朝市に出荷し始め、そのおいしさから夏の円山朝市で注目を集めるようになります。当時は余市で作られた蘭島スイカとの競争でした。
 昭和7年(1932)、山口農事実行組合は商標(レッテル)を作りスイカに張ったり、馬車にのぼりを立てたり、スイカ模様のはんてんを着たりして宣伝活動を始めます。消費地の近さや品質で勝る、「名産山口すいか」の名はさらに広まりました。

■戦時中はスイカ畑が田んぼに

 戦争中は食糧優先だったため、米などの生産に重きが置かれ、スイカはほとんど作られませんでした。戦争が終わると再びスイカ畑が増えていき、山口の農家に活気が戻ります。その後、大量生産、大量消費の時代となり、他町村との販売競争が激しくなってくると、宣伝活動の再開を余儀なくされました。狸小路や大通で「山口すいかまつり」を催し、のぼりを立てた三輪トラックや試食販売、「山口すいか娘」というキャンペーンガールも登場します。
 米に比べて商品として魅力の高さと、昭和40年代半ばの米の減反政策などにより、水田がスイカ畑に徐々に替わり、山口地区の農業はスイカ一色に転じていきます。

■新技術を取り入れ大量生産

 スイカは同じ畑で続けて作ると病気が発生するなど、難しい作物です。生産量を増やすための努力は並大抵ではありませんでした。
 昭和30年(1955)にユウガオに接木する技術を取り入れ、連作に成功。加えて育苗(いくびょう)技術も発展を遂げます。初めのころは種を畑に直まきしていましたが、うねを掘り、穴の中にワラと糠と水を混ぜて発酵させ、地熱を高めた温床で育てた苗を移植するようになります。さらに昭和32年(1957)には、電熱を用いて地熱を高める電熱温床を導入。そのころから育苗ビニールハウスを取り入れるなど、先進技術の研究に余念がありませんでした。昭和35年(1960)栽培技術などの向上のため生産者による研究会を発足。当時スイカ栽培の先進地であった千葉や静岡に実習生を送り、本格的な技術を学んでいます。
 ユウガオの台木としてから十三年後、連作による病気が発生しだしたため、昭和45年(1970)にはユウガオよりさらに連作に強いカボチャに接木台木を替え、収穫量を増やしています。
 昭和46年(1971)山口スイカの耕作面積は約200ヘクタールとピークを迎えます。その後、全国各地へと販路を広げたため、山口県産とまぎらわしいことから、昭和50年(1975)、サッポロスイカと名前を変えます。

■馬車の上で眠る。夏の夜の55日間

 昭和55年(1980)まで、収穫したスイカは自分で市場に運んでいました。トラックがない時代は、馬車の荷台に枠をはめた「ガタ馬車」にスイカを積み上げ夜半に出発、徹夜で運びました。4、5時間かけて午前2時か3時ころ円山朝市に着き、お客さんを待ちました。夏の夜、国道5号の石ころ道には、ガタガタとスイカを積んだ馬車の音が響いていました。
 朝市の店じまいを済ませると、たくさん買ってくれたお客さんの店まで配達です。いつも帰ってくるのは昼過ぎ。それから畑へ出て収穫し、馬車に積み込み再び市場へ。馬車がトラックに、円山朝市が中央卸売市場に替わっても大きな違いはありませんでした。昼も夜も働きました。そんな日が7月下旬から9月の初めころまで、約55日間続くのです。

■大冷害の教訓から大浜みやこは生まれた

 スイカの生産はかけに似ています。暑い夏のときは高い値が付き、たくさん売れますが、冷夏が訪れた年には元手すら回収することが難しいといいます。
 昭和55年(1980)は冷害の年でスイカ農家はかつてない大打撃を受けました。
 「その年、低温に強い作物はないかと種屋さんに相談したところ、『カボチャをやってみたら』ということに。そこで気の合った仲間八人でみやこカボチャを始めたんです」と話すのは、今もスイカやカボチャを作り続けている松森俊雄(まつもりとしお)さんです。大浜海岸に近いことから「大浜みやこ」と名付けられたこのカボチャは、一年目からそのびっくりするようなおいしさで注目を集めました。昭和56年(1981)7月のことです。

■築地市場で認められた味

 当時、森町のカボチャが一番とされていましたが、市場の人から1年目で既存産地と肩を並べ、2年目で追い抜いたと言われるほどでした。そして全国から一流の食材が集まる、東京の築地市場で、そのおいしさが裏付けられることとなります。
大浜みやこの初せり(札幌市中央卸売市場、平成10年) 昭和63年(1988)から本州市場へ出荷を始めます。平成2年(1990)築地市場へ関係者が視察に行ったときのことです。「味はいいが、土に触れていた部分が黄色く見栄えが悪い。ほかの産地と同じように土に触れないよう栽培してほしい」と指摘を受けました。そこですぐさま座布団と呼ばれる台を敷き栽培を始めましたが、人手の少なさには勝てず、その作業を断念。本州への出荷をあきらめることになりました。ところがその年、築地市場から「黄色くてもいいから、大浜みやこを送って下さい」と電話がかかってきたのです。
 おいしさの秘密は水はけの良い砂地の畑にあるといわれていますが、生産者全員の厳しい目で品質を管理する「共撰(きょうせん)」という出荷方法抜きでは語れません。たい肥を10アールあたり4千キログラム以上入れるなど、皆で話し合い決めた規約を守りカボチャを育て、それぞれの畑を回り品質の均一化に努める。そして外部から雇った検査員の検査を受け合格した物だけが出荷されます。

■スイカとカボチャと夏
 山口地区のスイカは、長年、個々の生産者が選別する個撰(こせん)により出荷されてきました。昭和50年代に入ると共撰が主流となり、市場からもそうするよう勧められていました。長年続いてきた出荷方法を変えることに抵抗感があったものの、「大浜みやこ」を共撰としたことをきっかけに、スイカも足並みをそろえることになりました。
 「大浜みやこ」と共に新たなスタートを切った「サッポロスイカ」も「大浜みやこ」の成功により、さらに注目を受けるようになりました。 暑い夏にはスイカがよくできよく売れる。反対に涼しい夏には、品質と価格が安定しているカボチャが有利。その年の夏の天候を予測しスイカとカボチャを植えるバランスを考えます。海に近い山口地区、夏を中心に季節はめぐります。

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