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更新日:2017年10月27日

2.前田の基礎をつくった大農場

 はるかに石狩湾を越えて暑寒別(しょかんべつ)岳を望む石狩・手稲通は一直線に石狩市花畔へ向かっています。手稲駅東のこ線橋上から眺めると道路の両脇は家並みで埋め尽くされ、現在4万人がこの前田地区に住んでいます。
 前田の地名は、旧加賀藩主前田 家15代利嗣(としつぐ)侯が明治政府の国策「富国強兵」に貢献し、前田家の財政的基盤を確立するため、この地に前田農場を創設したことに由来します。

■前田家の殖産事業

 明治維新の大変革により、大名、武士などが大量に失業します。家族まで含めると全人口の10パーセント以上に影響したともいわれる大変な社会変動の時代です。これは日本一の軍事、経済力を持つ加賀藩も例外ではありませんでした。時の当主、前田利嗣侯は失業した加賀藩士に授産(新たな職業先開拓と職業訓練)の道を付けようと決心をします。
 明治17年(1884)後志管内共和町前田地区で士族79戸を開墾に従事させ、成功を収めます。これに力を得て利嗣侯は札幌周辺地域での「前田農場」の創設に意欲を燃やします。欧米で近代的な農牧業を視察した利嗣侯は、単に土地を貸し小作料収入を上げるのではなく、直営大農場方式として畑作、育牛と牛乳、バター、チーズ、種牛などの農畜産物加工・販売で利益を上げようとしました。
 明治27年(1894)茨戸の堀農場を買収、翌28年には手稲村字軽川で森本義質氏借用中の未開墾農場を購入し、本場を茨戸、支場を軽川(がるがわ)に置き「前田農場」を創設しました。農場の総面積368ヘクタール、前田家の総投資額は3万7千8百39円(総合卸売物価指数で時価換算すると1億2千万円程度)でした。

■前田農場の組織

前田農場全景。右側手前の建物は手稲神社に残っています この農場の経営組織は、最高責任者として前田家から任命されて職権を委任された事務長と、その下に「事務」、「耕耘(こううん)」(耕作、植樹、開墾担当)、「育牛」(乳牛の飼育、さく乳担当)の三部長、その下に主事、農夫頭、牧夫頭、獣医、常雇員など21人の職員を置きます。
 それ以外の農場部門は、臨時雇員を年間延4千3百84人雇っています。前田農場の小作人は小作地を耕す合間に前田農場に作業員として出掛け、現金収入を得ていました。これは前田農場自体の人件費削減と小作人の生活対策という二つの側面があったようです。

■前田農場経営方針の変更~耕作から育牛へ

前田農場の正門(大正15年) 前田農場は、草創期から度重なる石狩川のはんらんにより打撃を受けます。収穫は明治29年(1896)4分作、2度の暴風雨の被害を受けた31年はゼロ、32年から34年は5分作というありさま。
 立地条件に適応する経営形態に改めるため、明治32年(1899)耕耘部を縮小、育牛部を拡充し育牛に重点を置きます。
 農場では牛の品種改良に力を入れ、純血種エーアシャー、ホルスタインを購入、日本における畜産改善の第一歩を踏み出します。また優良品種の育牛には飼料の増産を必要とし、飼料作物の栽培面積拡大と省力化のための耕運馬、機械力の導入を図り大型農法に転換します。
 前田農場の経営に優れたリーダーシップを発揮した利嗣侯は明治33年(1900)志半ばで病没、16代目利為(としなり)侯にその事業は引き継がれます。
 明治39年(1906)軽川に本場を移転、併せて農場経営に欠くことのできない木さく、まき、炭などの確保のため造林事業とバター製造事業(梅花印バター)に着手します。
 造林事業は、軽川地区約千ヘクタールの人口造林を行い、12年間で全山を緑化しようとするものです。このころ手稲山は乱伐や山火事のために広大な森林が荒廃していました。北海道造林会社(明治31年創設)の植林事業と共に、手稲山の森林資源の維持に努めます。
旧加賀藩主前田家の家紋です。梅花印バターの名は、この家紋に由来しています。
 こうした新規事業の展開に伴い、小作人に乳牛飼育を奨励し、その牛乳を買い上げて小作人に日々の現金収入の道を確保します。また、軽川地域の泥炭地に排水溝を掘り、水はけを良くし耕地を拡大していきます。さらには家畜のふん尿と草・わらを混ぜた有機肥料を使い土壌の改良も進めます。また、道路など現在の前田地域の基盤が作られていくのもこのころです。

加賀梅鉢

旧加賀藩主前田家の家紋です。梅花印バターの名は、この家紋に由来しています。

旧加賀藩主前田家の家紋

■小作人の生活

 農場の創設当初から明治30年代は主に石川、富山、山形から入植しています。農場では、小作人に対してお互いに境界を設けず開墾すればその分は自分のものになるようにしました。また、泥炭地で冷害も起こるため最初の3年間は小作料を無償にしました。
 入植者たちは、朝暗いうちから夜も手元が見えなくなるまで、一鍬(くわ)一鍬手で掘り起こしながら開墾を続けました。農場も農家を優遇し、不作の年には小作料を減免することが度々ありました。それでも、不毛な土地に見切りを付けていく人が後を絶ちませんでした。
 農場が最盛期を迎える明治40年代には、東北からの入植者が多くなります。軽川本場では約250ヘクタールの小作地に41世帯が農業を続けていました。
 川の水を利用した水田が増えていくのはこのころです。また、冷害による被害を少なくするために、豆類など多くの品種を作るように奨励しています。
 大正8年(1919)の小作契約書では、契約は5年更新、一反(約10アール)当たり2円(墾成地)、野草地など含め年間小作料は190円となっています。

■農場の最盛期

明治44年ころの前田農場の放牧風景 明治41年(1908)創業15年を迎えた前田農場は総面積2,006ヘクタールで、開設当時の6倍半に広がっています。農場の広さは、手稲地域だけでも「現在、手稲駅南側広場前のパチンコ店が並ぶ一角から、北は現在の石狩市樽川の大防風林(明治、大正のころは風防林(ぼうふうりん)と呼ばれていました)まで、道道石狩手稲線の両側に広がっていました」と前田農場の最後の事務長を勤めた及川武雄(おいかわたけお)さんを父に持つ政一(まさかず)さんは語っています。
 軽川本場は、1,673ヘクタール(現在の新千歳空港とほぼ同じ広さ)で農場総面積の8割を占め、牧牛業、耕耘業、造林業、牛酪業を主業務とし、エーアシャー種123頭、ホルスタイン種3頭の計126頭が飼われ、畑にはビート、エンシレージ、エン麦が栽培され、飼料は自給の域に達していました。
 直営事業は最新式の大型農業機械プラウ、ハロー等を導入しました。また、育成した乳牛は国内だけでなく中国・朝鮮に輸・移出され、わが国の畜産業の発展に大きな役割を果たしました。
 前田農場は大規模な牧場経営の先駆的な模範例となり北海道開拓に大きく貢献し、東北の小岩井農場と共に大農場経営の手本とされています。明治末期から昭和にかけて手稲で極東農場や塩野谷牧場など多くの農場が誕生するのも、前田農場の成功があったからです。
 明治44年(1911)に皇太子殿下(後の大正天皇)の行啓・視察をいただく破格の光栄を受けました。このときの休息所は現在手稲神社本殿横に移設され、 おみこしの奉安殿(ほうあんでん)として当時の面影をしのばせています。また、行啓(ぎょうけい)記念碑も及川家の庭に残っています。

■経営規模の縮小へ

 大正末期、第一次世界大戦後の不況、関東大震災と日本は政治経済、思想の分野で不安定な時期を迎えます。また石狩川治水工事の遅れや、大資本の進出による牧畜業の競争激化、小規模の牧畜業者の倒産、そして小作農民の自作農自立要求などが相次ぎます。
 さらに前田農場は2つの緊急事態に直面します。まず、競争が激化し生産性向上のためにはさく乳量と脂肪含有率に優れたホルスタイン種乳牛への切り替えが必要でしたが、経済不況で種牛変更の投資はできなかったこと。第2に、全道に広がった乳牛結核病が前田農場でも大流行し大半の牛が病気となったことです。牛乳・バターの販売停止、牛の大量処分により農牧業収入はゼロになってしまいました。
 利為侯は道内の各事業所を視察し、事業転換の決断をします。当時の「利為侯日記」によると「前田家事業を林業に一元化、育牛、牛酪製品の製造販売、耕耘直営事業の中止、小作地の全面開放、前田農場は林業事業のみを残して解体」するという大改革案でした。
 この方針に従い、前田農場は茨戸支場処分をはじめ経営規模を縮小します。軽川本場の小作地全面開放が決定されるのは大正14年(1925)。折からの不況と世情の混迷、小作人の自立意欲の減退、購入資金調達の問題もあり、順調には進みませんでした。小作地の売却、自作農創設は10年を掛けた大事業になります。
 前田農場のすべての小作地売却が終了するのは昭和10年(1935)。これにより前田農場の所有面積は1,400ヘクタールに縮小され、種苗植林を重点とした山林経営に専念することになります。

■前田農場の終えん

 前田農場の小作地の処分を続けている間、昭和4年(1929)から10年にかけて、金銀鉱山業者が手稲山にあった前田農場の植林造成地区にも進出、鉱業権を設定します。
 試掘などにより植林地の荒廃も目立ち始めたことから、昭和12年(1937)前田農場の全面売却を決定、三菱鉱業(株)と農場内鉱業関連土地全部の売却契約が成立します。
 翌年2月前田農場を廃止し軽川詰所に改め、約60ヘクタールの残地処分を進めます。すべての土地の処分が完了するのは昭和21年(1946)。ここに前田農場50年の歴史は幕を閉じます。一方この地に、前田の地名が定められるのは昭和17年(1942)のことです。

■自作農記念碑

馬による耕作 昭和6年(1931)北海道庁の「自作農創設維持資金貸付規定」が適用されます。手稲村は道庁から資金を借り受け、それを小作人に転貸する形で自作農の創設に努めます。この結果、昭和7年から10年までの間に、前田地区の51世帯が自作農として独立を果たします。これを記念して建てられたのが、現在前田中央会館横にある自作農記念碑です。自作農となった喜びは、言葉に表せないほど感激に満ちていたといいます。
 昭和8年度手稲村の自作農創設維持資金使途明細書によると、一人当たりの平均貸付金額は2千円、年利3.5パーセント、24年年賦の償還でした。貸し付け当初は毎年の小作料の支払いよりも負担が大きいという不満もありましたが、終戦後の貨幣価値の下落により、支払いが容易になり昭和22年(1947)には全員が完済しています。
 この歩みは大農場には珍しい小作争議を伴わない農地開放として特筆されるものです。前田農場が手掛けた酪農によって地域の開発を進めようという試みは、昭和に入り独立した自作農に引き継がれました。自作農となった農家は一致団結し、酪農郷を作ります。石狩・手稲通沿い両側には三角屋根のサイロ、白い乳牛の姿が見られるようになり、ミルクロードとして昭和30年代まで発展を続けます。

前田公園サイロ

 

家畜の飼料を貯蔵したサイロ(前田公園)

2つの前田

 

 現在、北海道内に「前田」の地名は2カ所しかありません。手稲区前田ともう一つは後志管内共和町の前田です。共に加賀前田家が開拓に携わったことが地名の由来です。
 また、前田小学校も2つありました。共和町立前田小学校は明治21年(1888)開校。一方の札幌市立前田小学校は前田地域の人口増加が著しい昭和53年(1978)に開校しています。しかし、共和町立前田小学校は過疎化が進み昭和57年(1982)には東陽小学校に統合され九十余年の歴史に幕を閉じています。

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