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更新日:2013年3月1日

1.手稲の130年を駆け足で

■手稲のはじまり

  明治5年1月(※1)、旧仙台藩白石支藩の50戸が三木勉(みきつとむ)を取締として上手稲(※2)に入植します。手稲コミュニティセンターにある手稲開村50年と80年記念碑は、この年を開村の起算点として建てられたものです。明治以前も移住者の記録は見られますが、その人たちが定住したのかは定かではありません。
 富丘にサンタロペツ通行屋が置かれたのは明治4年(1871)、現在の手稲本町はこのころから小樽・石狩を結ぶ交通の要所として発展します。札幌・手宮間の鉄道開通は明治13年(1880)、 翌年軽川(がるがわ)停車場(今の手稲駅)ができ、汽車が止まるようになります。
 また、山口村に山口県岩国市から入植者が入るのは明治14年(1881)のことです。
 このように手稲は、自らの意思で移り住んだいわゆる「自移民」によって開かれたまちです。
※1 この時期、太陰暦が使われていたため明治5年1月は西暦では1872年2月ころになります。
※2 手稲村(昭和26年に町制施行によって手稲町)は、その区域を上手稲村、下手稲村、山口村の三つに分ける手稲村大字三村時代が昭和17年まで続きました。下手稲村の範囲は現在町名では星置南、金山、稲穂、富丘、前田、手稲本町。山口村は星置、山口。そして上手稲村は宮の沢(西宮の沢を含む)、西町、西野、平和の地域です。現在の手稲区は、この手稲村字下手稲村、山口村に上手稲村の一部(西宮の沢)、それに琴似町発寒の一部(現在の新発寒)で構成されています。

■軽川のにぎわい

  明治19年(1886)新川大排水を開さく、低湿地だった前田地区の土地改良が進みます。明治 27年(1894)前田利嗣(まえだとしつぐ)侯は 前田農場を設立、酪農を始めます。 その後、曲長(かねちょう)農場、稲積農場などが明治末期から大正にかけ、酪農主体の農場経営に乗り出します。
 軽川駅には、手稲山からの木材、前田や石狩で取れる雑穀類や麻などが集まり、ここから札幌、小樽へと出荷されていました。明治44(1911)に執筆された手稲村史原稿では、軽川駅前の様子を「停車場通ハ殊ニ密集シテ物品販売商大小弐十三戸(中略)商品ハ小樽区ヨリ仕入レ之レヲ販売」、また、上手稲村は「純然タル農村部落ニシテ市街ヲ形造クラズ(中略)農産物及果実ノ如キモ亦札幌商人ノ手ニ委ス」としています。ここから両地域の街並みや経済圏の違いが読み取れます。大正・昭和初期と軽川駅前は物資の集散地として発展を続けます。
 軽川が最もにぎわうのは昭和10年代。三菱鉱業が手稲鉱山の経営に乗り出し、昭和15年(1940)本格的な生産態勢に入ります。
 多くの鉱山労働者が移り住み、昭和11年(1936)には約6千人だった手稲村の人口は昭和16年(1941)には2倍の1万3千人にまで膨れ上がります。

■手稲村の境界変更

 昭和17年(1942)琴似村との境界を変更します。追分川を境界としていたものを、炭鉱排水に変更するものでした(地図参照)。この経緯について手稲町議会議員 だった松井武市(まついぶいち)さんは「この辺りは買い物など日常生活で手稲との結びつきの強かった地域ですから、琴似村も反対はしませんでした。しかし、昭和23年(1948)に石狩町大字樽川村の一部を手稲村に編入してほしいという樽川村住民から出された要望は実現しませんでした。実現していれば手稲は海に面したまちとして違った形での発展があったのかもしれませんね」と話します。
 また、このときに下手稲村・上手稲村・山口村の字名を廃止し、福井・平和・西野・東・宮ノ沢・富丘・軽川・前田・金山・星置・山口・稲穂の字名を定めています。
 町制施行は昭和26年(1951)。開村80年を機会に町制に移行して政治、経済、文化面で拡充を図りたいという要望もあり、道議会の承認を得て11月1日町になります。
「このときに問題となったのは町名です。手稲よりも軽川の方が知名度は高く、下手稲村の人々は軽川の町名を惜しみましたが、結局はみんな手稲山の見えるところに住んでいるのだからということで手稲町になりました」と振り返るのは手稲町議会議員だった吉川毎吉(よしかわつねきち)さんです。

昭和8年10月編集の大字三村時代地図(手稲町誌付録)。灰色の部分は昭和17年の境界変更で増えた部分

凡例

■札幌市との合併

 昭和20年(1945)1万2千人あった手稲村の人口は手稲鉱山の衰退に伴い減少を続け、昭和25年(1950)には1万人を割り込みました。町制施行後は手稲町が産業振興に力を入れたこともあり、昭和30年代半ばから住宅地、軽工業地帯として注目されます。昭和35年(1960)には1万4千人だった人口は38年には2万人を超え、41年は3万人に達しています。
 このように急速に都市化が進む中で、手稲町では学校、道路など都市基盤の整備、飲料水やし尿処理などの問題も発生してきました。また、オリンピックを控えて札幌市は選手村、アルペン競技会場として手稲町に注目をします。
 札幌市との合併は戦前から話題になっていました。昭和38年(1963)蓑輪(みのわ)町長は町政執行方針の中で「工業地帯が完成するには札幌との合併が早道であり、町民も原則として賛成している」という見解を示します。合併の動きが本格化するのは昭和41年(1966)、札幌でのオリンピック開催が決定してからです。6月、町議会に「調査特別委員会」が設置され合併作業に入ります。翌年3月1日には札幌市と合併し、96年の手稲町の歴史に幕を引きます。
 合併の必要性について松井さんは「反対意見もありましたが、財政はひっ迫し都市基盤の整備も十分に行えなかったのが実情です。もう数年は合併しなくても町財政は保てたでしょうが、それではオリンピックに間に合わなくなります。手稲町に対する総額50億円の都市基盤整備はかなり有利な条件だったのではないでしょうか」と振り返ります。

■手稲区の誕生

 昭和47年(1972)冬季オリンピック札幌大会が開催、手稲山はアルペンスキー、ボブスレーなどの会場として世界の注目を集めます。その年の4月、札幌市の政令指定都市制施行に伴い、旧手稲町は西区の一部になりました。
 昭和50年代、札幌市は急速な成長を続けます。特に人口の増加が著しい西区と白石区の行政区域再編が議論され始めます。昭和58年(1983)に分区問題調査準備委員会が発足、分区作業に着手します。
 区の名称については住民の意向調査を行いましたが、手稲山のふもとに開け、手稲駅と共に発展してきた地域であり、ほとんどの区民が「手稲区」に賛成しています。
 手稲区の誕生は平成元年(1989)11月6日。10万5千の人口でスタートした手稲区は人口13万5千3百76人(平成11年11月1日)を擁する区として発展を続けています。

<イラストマップ | 1.手稲の130年を駆け足で | 2.前田の基礎をつくった大農場>

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