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(屯田兵以前|屯田兵の里|屯田兵が残した物|最大の遺産|歴史を語るもの|各種碑について)
西区というとすぐに屯田兵を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし、屯田兵入植以前からこの地には生き生きとした人々の営みがありました。西区では、多くの遺跡(縄文・続縄文・擦文時代=紀元前6000年~紀元1200年ごろ)が発見されています。
N30遺跡は、平成7年(1995年)、同8年(1996年)の調査で二十四軒4条1丁目(現北海道職業能力開発促進センター(ポリテクセンター北海道)敷地内)から発掘された遺跡です。この遺跡からは、縄文時代後期から晩期にかけての竪穴住居跡や大量の土器、石器が出土しています。
土偶(写真右)は、墓の上から見つかったもので全長24センチメートルと大変大きく、顔には「仮面」を付けていると見られ、両耳にはイヤリング用の穴が開いています。
ワンポイント西区1
遺跡の保存方法には、1.「現状保存」と2.「記録保存」があり、市内では、土地活用の制約などから1.は少なく、ほとんどが2.で行われています。なお、本市では例がありませんが、1.の一形態として「復元保存」という手法もあります。
擦文時代の後、歴史上北海道が確認されるのは、かつて蝦夷地と呼ばれていた時代(江戸時代)になります。この時代、相当早くから和人が北海道に足を踏み入れていたことは、史実にも現れています。アイヌ民族の墓跡から、和人との交易品(貨幣や生活品など)が出土しており、交易のために入地していたと推察できます。貞享5年(1688年)に、水戸黄門で有名な徳川光圀が送り出した快風丸という船が石狩川に入った当時、すでに多くの和人が住んでいたといいます。
アイヌとの交易のために、何カ所かの運上屋(交易の拠点)が置かれていました。イシカリ十三場所の交易を扱ったものに阿部屋(あぶや)があり、3代目村山伝兵衛の時代に勢力を固め、一時期イシカリ十三場所を一手に扱いました。やがて、安政年間(1854~1859年)になって、蝦夷地の開発は次第に活発化していきました。
当時、東洋の日本に深く関心を抱いていたオランダ、イギリス、フランスなどの列強各国は、次々と日本に来航していましたが、特に千島、樺太に南下して来たロシアを江戸幕府は警戒していました。
江戸幕府は、蝦夷地の監視を夏の間だけ役人を出張させるという勤番制度で行っていましたが、北の辺地で列強各国との武力衝突が頻繁に起こってきたため、武士の永住を目的とした在住制度を本格的に実施し、北の守りを強化しました。
この在住制度とは、武士が入地後、自力で開墾を進め、有事の際には防衛の要として働くというものでした。
しかし、初期の在住制度は、幾度も失敗してしまいました。その理由としては、入地後は全て自力によらなければならない開拓の厳しさに、耐えられなかったからだろうといわれています。
在住制度は集団開拓の初の試みとして注目され、明治期に入って北海道の開拓に大きな役割を果たした屯田兵制度の基礎をなすものでした。
安政4年(1857年)、現在の発寒地区に開拓者の一団が移住してきました。山岡精次郎、大竹慎十郎、永田休蔵ら幕府旗本の武士20人とその従者たちです。住居だけはあらかじめ用意されることになっていたものの、食糧その他生活の一切は自給自足という極めて厳しい開拓生活でした。その住居も入地早々はまだできていなかったので、アイヌとの交易に使われていた空き蔵を仮の住まいとして使ったといわれています。
これは、札幌開拓の祖といわれる志村鉄一、吉田茂八らと同年、大友亀太郎に先んじること9年前のことです。
在住による開拓の後、明治8年に琴似地区に屯田兵が入植。その翌年には、琴似屯田兵村の分村として発寒地区にも屯田兵村ができました。このため、発寒地区には、発寒開村紀念碑(写真右・春日緑地内)と発寒屯田兵移住百年記念碑(発寒11条3丁目発寒神社境内)があります。前者は、在住武士による入植を記念して、後者は屯田兵の縁の人達により、その功績を讃えるため建立されたものです。また、春日緑地には、開拓に功績のあった永田休蔵が水難事故でなくなったことを悼み、永田休蔵之碑(写真左)が建てられています。
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