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オンコの沢の鉄策
定山渓より白井川(しらいかわ)に沿って約6km、定山渓天狗岳が遥かに見える丘の道端に、むかしオンコの大木があった。
「道路にじゃまなので伐ろうとした山子(やなこ)がケガをしたので、〆縄(しめなわ)を張って近づかなかった。」という話が伝えられている。
ここが大正4年(1915)豊羽鉱山開鉱の時製練所が建設され、元山(もとやま)から約10kmの高架策道が架設され原鉱や貨物を運搬し、ここで製錬された精鉱を馬鉄や馬車・馬そりで札幌までたいへんな苦労をして運搬したのが大正7年(1918)定鉄が開通するまで続いた。
こうして、豊羽鉱山の中継点として、無人の丘に突然「"鉱山の街"が出現したので、温泉の人たちは「辺ぴなオンコの沢に、温泉街よりにぎやかな街ができたのでびっくりしたよ。」と、語り合ったという。
製錬所をはじめ発電所・診療所・郵便局・住宅や集会所・菓子屋・洗濯屋・呉服屋・豆腐屋・床屋・雑貨屋が軒を並べ、学校は私立小学校が建ち、児童も100人前後で先生も7名と元山よりにぎやかな街だったと、当時の植民広報に記録されている。
こうしたオンコの沢も、鉱山の移り変わりの中で生き、大正10年(1921)不況休山が10年あまり、昭和19年(1944)大雨のため坑内水没で数年間の休山、そのたびに無人となり街の灯は消えながら、昭和38年(1963)鉱山専用鉄道の廃止とともに、約50年の歴史をとじた。
製錬所は大正10年休山と共に廃止され、その跡は、現在の豊羽道わきに"煙道跡"としてかすかにその面影をとどめているにすぎない。
高架索道も跡形はないが山容を言われて知るしかなく、発電所の跡なども草むらに埋もれて昔を語るものは、"煙道跡"しかなくなってしまった。
「定鉄が走っていた頃、錦橋という駅があってここが鉱石の積みこみで、オンコの沢間を馬車トラックで運搬時はダイナマイトを赤旗立てて通った時代時代を思い出すよ。」
「昭和14年(1939)鉱山専用鉄道が30tから鉱山を積んだ貨車を10台以上連結して 20余年走り続けたのが目にうかぶよ。」「乗り合い馬そりがあって、寒い冬は湯たんぽをかかえ毛布にくるまって走ったがあったかでとってもなつかしい話だ。」
などと語る古老は今はもうすくなくなった。
いまも鉱山の本山より鉱石トラックがここを走っているが、児童が100人もいるにぎやかな街があったなどとは想像もつかない思いにかられるのである。
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