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ホーム > 南区の紹介 > 南区開拓夜話 > 定山坊が名づけた回春橋

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更新日:2011年2月21日

定山坊が名づけた回春橋

回春橋

回春橋

 慶応2年(1866)アイヌの案内でとめどなく湧く温泉に出会った定山坊(じょうざんぼう)は錫(しゃく)を打ち鳴らして喜んだ。「ここで人びとを救済し衆生済度の施しのため生きよう」と固く誓った。ただちに張碓(はりうす)の鉱泉を後に湯元のそばに草ぶきの小屋を建て、刈分け道づくりにも励みながら幽谷にただひとりで耐え、5年余の歳月が過ぎる。時代は蝦夷地(えぞち)が北海道へと激動するなか、明治新政府は開拓使を設置、北辺の開拓を急いだ。
 開拓使・島義勇(しま・よしたけ)や岩村通俊(いわむら・みちとし)に出会った定山坊は温泉開発を熱心に懇願した。さいわい岩村判官に認められ、明治4年(1871)浴場・宿泊所が建てられ、自らも「湯守り」に任ぜられ扶持米を給される身分になった。
 この年の10月東本願寺による有珠(うす)新道の開削が温泉場を経由して、平岸から本府に通じ、湯治客往来にはなはだ便利になった。あわせて新道完成を検分のために来渓した副島種臣(そえしま・たねおみ)・東久世(ひがしくぜ)開拓使長官に対面、"衆生済度(しゅじょうさいど)の施(ほどこし)に生きんとする信念の体現者"として激讃を受け無名の渓容に「定山渓」と命名されいたく感激する定山坊であった。
 温泉場には粗末な一本橋にかわって、丸太を組み合わせた真新しい橋が架けられた。見ちがえるばかりの浴場・宿泊所と「湯守り」という身分に、感涙にむせぶ定山坊であった。
貧窮と孤独の長い道のりをふりかえり、こうした苦難にみちた巡錫の過去に思いをはせながら、"この私にもようやく春がめぐってきた"というしあわせの思いを橋に託して「回春橋(かいしゅんばし)」と名づけ、橋のたもとには力づよく刻んだ標柱を建てた。
 定山坊はこの年、もう1つのしあわせを得たのは、平岸開拓に入植した旧伊達(だて)藩士ゆかりのキンという41歳の女性をめとり、姓も「美泉(みいずみ)」と名のり、70歳を間近にして長い巡錫の旅を終えたことだった。
 後年定山亡き後、かわって温泉場を経営していた佐藤伊勢造(さとう・いせぞう)氏の子孫の話によると、「回春橋と名づけた橋も明治6年(1873)大水で流され、その後も何回か流失したが、その度に橋の名を書いて、明治19年(1886)穴の沢~定山渓の道路改修で月見橋と改められるまでの10年余、定山坊の思いをだいじに変えることはなかった」また「湯治客に橋の名の由来を問われるので、帳場に―わかがえりばし―と書いて張り出していた」という。
 「回春橋」とは、美泉定山にとっては、まことにふさわしい呼び名であったと言える。


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