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なつかしい定山電車
半世紀にわたって走り続けた"定鉄(じょうてつ)"のなつかしい思い出は、今も多くの人に語り継がれている。
定山渓温泉への行楽や区内観らんレジャーは勿論、沿線住民の通勤通学、さらに定山渓の木材・豊羽の鉱石・石山の軟石・沿線の農産物や生活用品などの輸送などに多くの便宜をはかって呉れた思い出の多い鉄道だった。今は線路跡をところどころに残し、石切山(いしきりやま)・豊平には駅舎の名残をとどめていて、その昔をしのばせて呉れる。
さて、大正のはじめまでは、札幌~定山渓の往来は大変不便で、木材は豊平川の流送・鉱石・資材・農産物は馬車運搬。人は石山までは馬鉄その奥は一日がかりで歩くか馬車に乗るかであった。
大正4年(1915)定山渓鉄道株式会社が設立され、工事は6年4月に始まり、突貫工事の末翌大正7年(1918)の秋、開道50年にふさわしく宿願の鉄道が開通したのである。
白石―豊平―石切山―藤の沢―簾舞一定山渓と、6駅29.9kmであった。
大正7年10月17日雲一つない秋晴の日、汽笛一声白石駅を発車した。沿線には住民が日の丸を振って祝った。「もくもくと煙を吐き、日の丸を掲げた機関車を見たときは只々涙が出てしようがなかった」という。
鉄道の開通によって沿線も便利になったが特に定山渓温泉の発展はめざましく、昭和4年(1929)には輸送力増大を計って電車に切替えたので、さらに行楽客も増え、"札幌の奥座敷"と呼ばれて地方からの行楽客も多く増え、ダム建設によって"舞鶴の瀞(とろ)"という玉川の水遊びという景勝地もこの時代であった。
しかし戦時になると行楽客も激減、鉄道利用は戦傷病者の通院転送とか、戦時増産の鉱石輸送など月間3万トンも輸送した。戦後は真駒内キャンプ・クロフォードの建設や米軍物資の輸送や進駐軍の乗降で回転した時代もあった。
世の中が落ち着きを見せた昭和25年(1950)頃になると温泉行楽も復活、沿線のハイキングコース・行楽地の開発などもすすみ、昭和32年(1957)には札幌駅まで乗り入れ活気を見せた時代もあったがそれも2、3年の間であった。
時は自動車の時代となり団体バスやトラック輸送に切り替える時代が到来し、さらに冬季オリンピックによる地下鉄建設によって平岸―真駒内の路線買収申し入れなどがあり、ここに鉄道廃止を決定した。
昭和44年(1969)10月30日「蛍の光」が流れる中、豊平駅―定山渓をおおぜいの人に送られた"さよなら電車"がひときわ高い汽笛で最後を飾ったのである。
多くの人生ドラマを乗せてひたすら走り続けた定鉄だったが、多くの人びとに愛惜を残して永遠にその姿を消した。鉄道が開通して51年の歳月が流れていた。
今は平岸から真駒内までのシェルターが定鉄の跡。
『定山渓沿線にもう一度電車が走ってほしい。』という声は沿線住民だけでなく市民の多くが今もなおいだいている願いである。
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