■シコ名「千鳥石」の碑
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| 千鳥石碑 |
天神山の相馬神社境内に「記念千鳥石」という碑が建っているが、その由来を知っている人はいまは少なくなった。
むかし澄川に相撲で千鳥石のシコ名をもった吉田清(よしだ・きよし)という人がいた。
清は明治9年(1876)福井県に生まれ、気性が激しく機敏で相撲が上手だった。15・6歳で家出し放浪の旅先で、祭りの奉納相撲で賞金を稼いだり、拾い仕事で賃金をもらったりして明治28年(1895)20歳で札幌に辿り着いたが、ここでシコ名「千鳥石」としてメキメキ頭角を現し、小兵ながら敏しょうな土俵の立廻りとあざやかな手さばき、それに持前の男ぶりと気っぷの良さが人気を呼んだ。なかでも、シヨッキリは札幌一といわれ、しばらくは角界でくらした。
明治38年(1905)30歳の頃、清は澄川4条2丁目辺りに世帯を持って豆腐屋を始めあわせて餅などを売り、澄川ではじめての小売店を開いた。
此の頃澄川で始められたビール瓶の原料の火山灰採掘が年毎に盛んになるのに着目し、明治40年(1907)頃から採掘・運搬を請負い事業は非常に繁盛、大正期には全盛をきわめた。
作業小屋では『千鳥石』と染められたはんてんを着こんだ人夫が忙しく働く姿が見られたという。
澄川一といわれた邸宅に住み、相撲仲間がひっきりなしに出入りし、なかには東京の相撲部屋にいたという若者なども、清を慕って集まり砂山で働いていたという。
大正5年(1916)草相撲の現役を退いていた清であったが、その名声はおとろえず「札幌地方相撲頭取」にまで祭り上げられた。これを記念して、大正6年(1917)8月澄川の吉田庄蔵(よしだ・しょうぞう)・中井喜太郎(なかい・よしたろう)・中井末吉(なかい・すえきち)等が発起人となり、澄川産の軽石に「記念千鳥石」の碑をきざんで相馬神社境内に建立した。
清の晩年は、妻に先立たれ、終日を孫の子守りで過ごしたが、春秋の東京相撲の実況放送を鉱石ラジオにきき耳を立て勝ち負けに一喜一憂するのが何よりの楽しみだったという。
昭和14年(1939)の春相撲放送を聞いているうちに病に倒れ、相撲人生を夢見るかのように永い眠りに旅立った。いまも相馬神社の祭典には、子供相撲をなつかしむかのよう碑は見守っている。
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