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■開拓をしのぶ三基の碑所

開拓三基の碑
「澄川の神社は、平岸天神山の相馬神社で平岸の人びとと一緒に氏子になっている。」
「木挽山(こびきやま)は澄川の神社みたいなもので、澄川開拓の歴史を保存する役割を果たしてきた。」
「木挽山の3つの碑を、昭和50年(1975)吉田金太郎(よしだ・きんたろう)氏の特応寄付の澄川4条11丁目の土地に移し祀っている。」
『山の神・熊之神碑』
明治5年(1872)開拓使は小挽小屋を建て森林の伐採をはじめたが、山の神に祈りを捧げて斧入れを行い、山仕奉の無事を念う仕来りを大事に開拓に励んだ。
また、筑前団体の入植開墾の頃、熊が出没しその被害におそれおののいていたが、ある年木挽山の炭焼ガマに落ちて大ヤケドをした巨熊の死体を見つけこれを哀れに思い鎮魂標柱を建て、山神祭に併祭し、明治43年(1910)碑を刻み祭るようになった。
『新設大林碑』(造林記念碑)
豊平村の篤農家に阿部宇之助(あべ・うのすけ)という人がいて、明治29年(1896)精進川沿いに54万坪(約18ha)の土地を払下げ、農地開墾と造林事業をはじめ、澄川開拓のために大きな貢献をした。なかでも造林については道内屈指の美林を育て国より顕賞される程の功績を残した。
大正5年(1916)落葉松植裁20年を記念し、北大総長・佐藤昌介(さとう・しょうすけ)の揮亳をいただき碑を建立した。
『豊受姫神碑(とようけひめがみひ)』
戦争の傷あともまだ生々しく民心もまだ不安定に揺れ動く昭和21年(1946)、部落の人びとは心の拠りどころを求め、相協力して村づくりに励まなければならないことを念い、さいわい農業に関しては農地改革という新時代の到来に当たり、山の神にも縁りがあり、且つ五穀豊穣の神である「豊受姫神」を祀ることに一致し、碑文の揮毫は豊平町政に長く尽力し、町民と最も親しみの深かった松崎亀二(まつざき・かめじ)元町長に願って、先人の開拓に尽くした功績に謝して木挽山に建立した。
碑前に立つと、三基の碑は郷土澄川の変遷と開拓に尽くした先人の功績を讃えるにまことにふさわしい証であることに深く感ずるのである。
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