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エドウイン・ダン像
北海道開拓の時代、お雇い外国人として、農業・畜産の普及発展に尽くしたエドウイン・ダンの業績とその考え方や生き方をいまも敬愛している人は知る人のすべてであろう。
真駒内中央公園の一隅にある"エドウイン・ダン記念館"や公園内キタコブシを背にして建つ"小羊を肩にした青年ダンの銅像"がその偉大さを物語っている。
ダンは、明治6年(1873)25歳で米国オハイオ州より来日、明治8年(1875)函館七重官園(ななえかんえん)に勤務、ここで津軽から来た松田つるを見初めて結婚、翌9年同伴で札幌官園に着任する。クラークが札幌入りして札幌農学校が開校された年である。
ダンはただちに真駒内牧牛場の建設に着手、開拓使が廃止されるまでの6年間、牧牛場・牧羊場・養豚場建設と家畜飼育の試験・指導をはじめ牧草・甜菜・亜麻の栽培、西洋農具の使用方法の指導など、現実生(農業実習)を熱心に激励指導にあたった。さらにバター・チーズ・練乳の製造やハム・ソーセージの加工指導も行い「畜産人は一度は真駒内牧場で研鑽しなければならない」の礎をつくった。まさに『ダンは北海道酪農の育ての親』なのである。
また、明治11年(1878)開拓使が試みていた4ヶ所の牧馬場を新冠(にいかっぷ)牧場の拡張整備に集約し、"馬産国日高"の礎を築いたのも他ならぬダンの業績であることを忘れてはならない。
"馬を守るためにストリキニーネで狼退治した話""新冠で病気になったダンを気づかって馬で150km走り続けた感動的な夫婦愛の話"こうしたエピソードはあまりにも有名である。

真駒内種畜場
こうして明治15年(1882)開拓使廃止に伴いダン夫婦は北海道を離れた。ダンは一時帰国するが、再び外交官として日本に戻り、駐日公使として日清戦争の和平交渉につとめたり、日本の国内産業の開発のために新潟県に石油事業を操業したり、岩手県の小岩井農場の発展につとめたりして、日本を愛し続け在日56年の生涯を、昭和6年(1931)84才で東京代々木の自宅で生涯を終えたのである。
ダン回想の一文
「私が、一生をこの日本のために捧げようと堅く決心したのには2つの理由があって、1つは明治天皇様のご厚意にお答え申し上げるため、そしてご人格を尊敬申し上げ、国民に対して数々のご愛情に感激したため。もう1つは、この妻を通じて知った日本人の並なみならぬ立派な民族であること、この人びとのために尽くそうと考えたからで、この決心はまちがっていなかったことを喜んでいます。
-明治の牧柵-より(ダン道子著)
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