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上山鼻渡船場
石山通りを南下、南32条の辺りに「みゆき通り」と呼ばれる一見にぎやかな趣を見せる通りが、「明治大帝御巡幸之碑」の建つ「みゆき公園」でその先は行き止まりになっている。
いっぽう、上流の「藻岩上の橋」の対岸真駒内側たもとには「上山鼻渡船場」という史跡標柱が建っている。
さて明治9年(1876)石山軟石を本府建設に活用するため、黒田清隆(くろだ・きよたか)の特命を受けた開拓使は、軟石運搬の道路を石山-真駒内-山鼻をして道路の開削と豊平川の上山鼻渡船場を設けてその任に当った。
その後、時代が変わって明治42年(1909)馬車鉄道運搬になるまでの30余年間「渡船運搬」が続いた。
しかし渡船場はその後も、船を小さくして、札幌市街へ野菜・雑穀を売りに行く農夫や薪や木炭を運ぶ木こりなど、それに真駒内種畜場の牧場夫なども利用した。「札幌の町へ行くには渡船を利用し南21条から電車に乗るのが近道だった。」
こうして、昭和9年(1934)藻岩上の橋ができるまでの25年間、軟石の"渡船運搬時代"から数えると約60年の長い間、"渡し守"も洪水で犠牲になった藤川重藏(ふじかわ・じゅうぞう)氏を初代にして本間俊藏(ほんま・としぞう)氏を経て藤川喜藏(ふじかわ・よしぞう)と3代にわたって、南区開拓の歴史と共に活躍したことを知っている人が少ない。
さて、上山鼻渡船場で続いた運搬・連絡の道路を"みゆき通り"と呼称するようになったのは昭和11年(1936)であるが、そのいわれを辿ってみたい。
明治天皇は、北海道の開拓や、お雇い外国人のもたらす西欧技術に深くご関心をもたれ、開拓使廃止の前年明治14年(1881)黒田清隆の要請もあって、北海道開拓の状況をご視察すべくご巡幸なされ、農学校をはじめ官営工場や官園さらに真駒内種畜場などを巡られ、東京官園時代以来エドウイン・ダンとも親しく会われた。この時軟石運搬道を整備したり、渡船場には朱塗りの橋を架けて奉迎した。しかし朱塗りの橋は翌年の増水で流失したし、道路も運搬道のまま時代が過ぎ、たびたびの洪水で荒れ果てていた。
昭和11年陸軍特別大演習で昭和天皇がご来道を記念して"碑"を建立したり、道路を"みゆき通"と呼ぶようにして、街並みを整えてきたあゆみをうかがうことができる。
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