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更新日:2011年2月21日

10万坪開拓から

藻岩発電所

藻岩発電所

 石山通り(国道230号線)を南下すると藻岩山稜線が切れて赤茶けた岩肌が露呈した「軍艦岬(ぐんかんみさき)」の下を通り過ぎ、藻岩山の東麓の丘陵地帯と、豊平川の狭間を過ぎ、ふたたび川沿いに接する処で「割栗(わりぐり)岬」に至るまでの地域が「藻岩下(もいわした)」と呼び、むかしは「上山鼻(かみやまはな)」と呼ばれていた。
 この地は開拓使の本府づくりに当って、東本願寺が山鼻から発垂別(はったりべつ)の約6kmの「ハッタルベツ新道」開削を明治3年(1870)完成させた。続いて明治6年(1873)政府より10万坪の下附を受け、農場開拓を試みるべく伊勢・桑名より2戸の農家を入植させたが、開墾を果たせずこの地を去ったので「東本願寺開墾」とも呼ばれ、これが開拓のはじまりであった。
 本格的な開拓は明治13年(1880)岩手県より本宮要助(もとみや・ようすけ)氏とそれに従う12戸が入植し、少ない収穫や豊平川の洪水にも負けず苦難に耐えながらの開墾だった。まさに「10万坪の開墾」からはじまった。
 さて、上山鼻は地形上むかしから交通の要衝で明治9年(1876)石山から真駒内を経ての石山軟石の運搬や、明治12年(1879)発垂別の馬車道による硬石運搬の役割を果たし、さらに明治42年(1909)には石山・山鼻間の馬車鉄道が開削されて軟石・硬石を合せて運搬する役割を担ってきた。その中で先人は豊平川の洪水と闘いながらの開拓によって明治44年(1911)頃には、リンゴ問屋で平岸リンゴも買い占め海外にも輸出していたという梶川新次郎(かじかわ・しんじろう)氏がこの地にリンゴ園 7haを開園するなどリンゴ園総面積 14ha 1,500本にも及ぶ発展をみせていた。ただ小作農家は開拓も進まず、収穫も少なく生計をたてていくために造林作業や採石作業に従事したりして生活を支える苦難が続いたという。こうした生活不安をかかえた開拓の問題は豊平川の洪水も、藻岩下開拓の歴史は豊平川との闘いの歴史でもあった。その代表的な惨事が大正2年(1913)8月の大洪水で、開拓の先人浦波亀寿(うらなみ・かめじゅ)さんの少年時代必死の体験談として残されている。
 総戸数17戸のうち被害に遭わない家は2戸で5戸流失10戸浸水、死者1名は上山鼻渡船場の渡守・佐藤重蔵(さとう・しげぞう)氏で、浦波さんの母と妹を助けようとして濁流にのまれた惨事であった。40haの畑はすべて水につかり、作物はリンゴの木を残すのみですべての作物が流されてしまった。こうした大被害のためにやっとの思いで開墾した土地を捨て移っていく開拓者は涙を飲んで去って行った。
 こうしたたび重なる洪水をきっかけに、大正9年(1920)から堤防築造など豊平川の治水工事が本格化して、藻岩下もようやく安定した農業経営ができるようになった。
 以来昭和11年(1936)藻岩発電所が完成し3本の水圧鉄管が地域発展を象徴するかのように際立ち、昭和21年(1946)終戦による米軍のキャンプクロフォード建設が地域にも平和の急発展を及ぼし街並みを大きく変えていった。「ハッタルベツ新道」以来の交通の要衝は昭和28年(1953)には2級国道になり、それに伴う交通機関の発達は藻岩下地区のさらなる発展を見たことはすばらしい。


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