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おいらん渕
むかし豊平川の水量が多く、明治・大正時代はこの流れを利用して上流から木材の流送が行われていた。藻南公園のところは、深いところで10mもあり、不気味によどみ数10mの岩はだは軟石質で「白ガンケ」と呼ばれ、激流が渦巻いていて、古くから"おいらん渕"と呼ばれ、恐ろしく非常に危険なところであった。
事実毎年のように水死者が出るのでこれを悼み、宝流寺佛教(ほうりゅうじぶつきょう)婦人会が中心になって地蔵尊を建立、冥福を祈願していた。
さて、こうしたことから、おいらん渕にまつわる興味のあるいろいろばなしが伝えられている。
●その一 北海道の伝説 渡辺茂(わたなべ・しげる)
むかし札幌で夫の死後、色恋におぼれた女がいた。その息子も母親の行状に影響され遊興におぼれた末、おいらんを身請し商売もせず乱れた生活に明け暮れた。1年が過ぎた雨の夜おいらんは家を出た。10日目八垂別(はったりべつ)に溺れ死んだ女が見つかった。ところが農家の若者が「数日前けんかして家を出た妻だ。」と見分けがつかない程変わり果てていた。着ていた着物の模様で息子は引きとり立派な葬式をしたが、おいらんか農家の嫁か謎に秘められたままである。
●その二 さっぽろむかしあったとさ 坪谷京子(つぼや・きょうこ)
ススキノ遊郭に、能登の山中の貧乏な家の娘が買われてきたが歳は12歳だった。
りっぱな家で白いご飯を食べられ仕合せに台所で下働きをしているうちに15歳になった。ある日家へ帰してほしいと頼むと、主人は血相をかえて「帰りたかったら500円返せ。」と怒ったでの、その後おいらんになってしまった。娘は結核になり、主人は暗い部屋に移し、薬も飲めず死を待つ身になった。
ある晩おいらんは、血のついた着物を着て部屋を出た。翌日豊平川で着物は見つかり駒下駄は崖の上にきちんとおかれていた。こんなおいらんが何人かいたので、いつしか誰いうともなく「おいらん渕」と言うようになったとさ。
●その三 南区のあゆみ
明治・大正の頃、豊平川に発電所ダムができるまでは、流送で木材を運んだ。
むかしは家の多くは柾葺きで材料は定山渓で伐り出したトド松の類で、春5月から秋まで流送は行われた。曲がりくねっていたところ渕あり浅瀬あり岩ありで流送は並大抵ではなく時には命がけであった。
鳶口一丁を頼りに"おいらん渕"まで来ると、親方は「ススキノへ行っておいらんでも買えや。」と、祝儀を奮発してくれた。
"おいらんを買える扶持をもらえる所"と言うので「おいらん渕」になったという。
以上3つの話のアレンジがおもしろい。
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