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軟石を使った豊平館
川沿の南限にある硬石山(かたいしやま)は、硬質な石英・安山岩の赤茶けた岩だけを見せながら、札幌創建以来百年以上の歴史を刻みながら地域や札幌の礎石として役立ってきたことは大きい。
現在も砕石として道路工事あるいは建築工事に欠かせない砕石資源として活気に充ちた採掘が継続されている。
開拓使請負人・大岡助右衛門(おおおか・すけえもん)が、円山緑林保護のために硬石山を着目したのは明治5年(1872)で本格的な採石開始は明治6年(1873)頃からだった。
はじめは筏で創成川取水口まで流送したが明治12年(1879)運搬道路が開通したので馬車・馬そりの運搬に変わった。
明治11年(1878)開拓使本庁舎や翌年の豊平館、さらに明治19年(1886)の建設に当たって、礎石は硬石山の石材を使用したが、大きなものは"五印(ごじるし)材"と呼ばれ、1尺×1.5尺×3尺の角柱で、重さは約100貫目であった。
セメントも使わずただ積み重ねたものだが寸分の狂いもないので当時の石工のすばらしさに舌をまいたものだった。
腹掛け・半天の石工も静岡・神奈川・茨城などから50人以上も集められ、ノミ・ハンマーを威勢よく打ち振る音が鳴り響いた。
はじめは夏だけで冬は無人になったが、そのうち定住する石工もいて少しずつ聚落をつくっていった。
角石のほかに間知石・割栗石・砕石・石粉などがある。
いま藻岩南小学校には「硬石山資料館」があって昔の道具・住宅・その他の資料が展示されていて当時を物語っている。
硬石会社の裏手に小高くしかも雑草に埋もれるような径を登ると、一対の碑門が建ち、その奥に七基の碑が並鎮されている。
明治14年(1881)建設された開山の碑「大山神(おおやまがみ)」玉井渓一石工中(たまいけいいちいしくちゅう)とがある。
石工はたいへん危険の多い職業だったので、自らも家族たちも安全と感謝を祈念した碑である。数多くの石工中定住者第一号の佐藤治右衛門(さとう・はるえもん)だが、碑門一対(ひもんいっつい)を明治37年(1904)、大山祇(おおやまずみ)大神の碑は北海道移住20年記念、そして息子と親子2代80余年にわたり硬石山と共に生きた石工一族の人間ドラマがしのばれる。
戦中、500人からの朝鮮人を強制労働に酷使した時代もあったという。戦後米軍の真駒内キャンプ・クロフォードの基地工事には多くの石材が使用された。現在は土木事業・土地開発のためにも貢献し続けている山である。
あらためて石山大橋より砕石機やトトラツを目前にし、海抜371mの山頂近くまで採掘が進み、山容を変えながら今もなお膨大な量を産出し札幌の街を支える礎石であり続けることをこれからもねがっている。

硬石山 採掘の碑
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