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駒岡開拓の碑
駒岡(こまおか)の開拓は戦後になってからで、かつては真駒内種畜場の放牧地であった。昭和20年(1945)に米軍演習地として接収されたが、昭和22年(1947)米軍の未墾地開拓放許可が出たことにはじまった。
戦後、海外からの引き揚げ者とか、戦災疎開者が北海道にきたが、そのなかで満州開拓から来た16戸と東京疎開から来た18戸がはじめて駒岡に入植したのが、昭和22年(1947)7月20日であった。土地を失い帰る所もなくさまよい歩いた末、やっと見つけた安住の地に辿り着いた喜びは大きかった。
精進川(しょうじんがわ)の川端に一張の天幕を張り全員がここに落ち着き互いに手を握り合った。以来この日を"入植記念日"と定め心に刻み、一同が一丸となって「信念」の2字を合言葉に開墾に希望の汗を流すことを誓い合った。
この開拓に先頭になって尽力した人は唐木田真(からきだ・まこと)氏であった。後年「三反百姓小伜の足跡」の著者で、戦中満州開拓実験農場長であった気骨のある長野県人であった。
2人に1枚の布団、配給の食器、ゴザ3枚が財産のすべて。とりあえず食料の確保が先決で、原生するクマ笹、古い切株、根曲竹、うっそうとした所の堀おこしで農地づくりから始まった。「開拓地成功検査」は配当地の60%以上の開墾によって認められ、しかも5ヶ年以内という期限つきの規則だった。
そのために目的達成を急ぎ、夜明けと共に野良に出、夜は8時9時という重労働に挑みながらもぐちもこぼさず、ひたむきに"恵み"に感謝して一心に働いた、おかげで苦労が実り全員が成功検査に合格することができ、畑作・稲作が順調に営むことができるようになった。"開拓協同組合"の努力も大きかったことは言うまでもない。
真駒内開拓団として5部落(真駒内第1団32戸・第2団30戸・第3団34戸・西岡16戸・滝野50戸余)1,600町歩もほとんどが2ヶ年で入植完了することができた。昭和24年(1949)小学校を真駒内の「駒」と西岡「岡」の2字を取って駒岡小学校と命名したことにより地名も「駒岡」と改称することができた。
村づくりも一致協力して事に当たった。道路の問題と学校設置の問題・電気導入の問題・飼料に食糧の確保問題・交通網の整備問題等々さらに「開拓協同組合の設立と運営」についても限りない苦難を乗り越えてきた。
現在、駒岡には開拓に励んだ開拓記念の碑が2基、1基は昭和41年建立で真駒内第1団の苦難の跡がしのばれる碑、さらに昭和42年建立の第1団・第2団・第3団合同の20周年記念を物語る「恵」の玉を台石で支える先人をしのぶ碑があって、"第二のふるさと"を築いた苦難がしのばれるのである。
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