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土場風景
石山陸橋を越え支笏湖の方へ進むと、真駒内川に架かる「常盤一号橋(ときわいちごうばし)」がある。この橋は別名「監獄橋(かんごくばし)」とも呼ばれているが、その名のとおりこの橋を渡り常盤新橋(ときわしんばし)までの間に約50haの敷地をもつ苗穂(なえぼ)刑務所の分監(北海道監獄署平岸派出所)があった。札幌監獄沿革略誌によると、明治31年(1898)から2年間で、囚徒30名が監房に収容され、看守5名の監視のもとに主として未墾地の開拓に従事した。(臨時に石山軟石の運搬にも従ったとの説もある)逃亡者が続出するなどの経緯もあって、その後月形(つきがた)刑務所に移監されたと言われている。
したがって、この地区の定住移民による本格的な開拓は、監獄がなくなってからの明治34年(1901)以降で、中川千吉(なかがわ・せんきち)が郷里石川県より5世帯を呼び寄せ、熊におののきながら密林に挑む開拓がはじまった。
なお、その昔望豊台(ぼうほうだい)と呼ばれ親しまれてきた以南一帯を「土場(どば)」ともいわれていた。監獄がなくなり開拓が始まった頃から、札幌の木材需要にこたえて、真駒内川の上流で伐り出された原木を流送し、常盤一号橋辺りで引き上げ集積していたのでその地域一帯を「土場」と呼ぶようになり、昭和19年(1944)字名改称で「常盤(ときわ)」となるまで「土場」というのが部落名で、学校も「豊平町立土場小学校」であった。「原木が山のように積まれた土場で人馬がひとつになって威勢よく働いた次代が懐かしい。」と語る古老もすくなくなった。
さて原木の運搬には、流送が馬搬にたよる時代で、水量の多くない真駒内川の流送はたいへん工夫のこらしたものだったという。
川の何ヶ所かをせき止めて、水を貯め、そこへ原木を流して集め、それからせきを破って水と一緒に次のせきまで流すという方法であった。最後のせきで引き上げ集積し、夏は人手で1本1本川を引いて下り、冬は手そりで運ぶこともあってたいへんな労力と危険をともなう作業であった。
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