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望豊台の碑
本府創建のために採掘された軟石は、馬の背に2切ずつしばって搬出していたが、能率があがらないので、開拓使は明治9年(1876)石山・札幌間に馬車道を開削し、豊平川には上山鼻馬渡船場を設置したので、現在の石山通りを通って札幌に運搬できるようになった。
いっぽう石山陸橋の峠越えは急勾配できびしく、20頭から30頭の馬は急坂に汗を流して中継点に着くと、夏は馬車、冬は馬橇に替えられて直ちに真駒内~札幌へと向かって行った。こうしたので陸橋の中継点を人びとは"望豊台(ぼうほうだい)"と呼び、明治42年(1909)馬車鉄道が走るまでの30余年間先人達は望房豊台と慣れ親しんできたところであった。
運んできた馬は解き放されてゆっくり草を喰べて疲れを慰やし、馬追い人夫は仲間と共にしばしの憩いに身を休めながら、彼方に父なる藻岩の山並みを遥かにし、眼下には母なる川の流れに目をうつしながら労をねぎらい合ったのである。
さて、昭和13年(1938)時代は移り馬車時代から馬鉄時代そして鉄道時代と変わったなかで、郷土石山を愛する青年達は、先人の労苦を偲び開拓の心を後世に伝えようと叫合して「望豊台の碑」を昔日の中継点に建て、戦時下の増産に励みまたは戦地におもむいた。
時は流れ、石山陸橋は札幌の南の交通の要衝であり交通渋滞の難所と発展し、昭和61年(1986)高架道路の開通を機会に、建立以来半世紀の間、石山の歴史を見てきた「望豊台」の碑を保存しようと移設し、あらためて、石山に生まれ石山に育ち石山を愛した当時の青年の志を受け、新しい時代に引き継がれていくことを由来記という副碑に刻んで建立した。なお移転を記念してタイムカプセルを埋設して50年後の次代に開いて、"軟石の歴史"を永久に保存していこうとする願いはまさに郷土愛の証である。
にぐるまも 輪をかためて あぶなしや 石まるび ころぶ いしやまの里
石森和男(いしもり・かずお)作)
石山小学校校庭の碑から軟石の石山を偲び石山を愛した心情がひしひしと感じさせられる。
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