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三豊山
開拓のむかし、"軟石の石山" "通行屋と第四・御料の農場簾舞" の狭間のような藤野は、山鼻・篠路・屯田給与地の通い作りや石狩大漁師の木材切り出しからはじまり、定住移民による郷土開拓はやや遅れたので、次代を担う開拓二世たちは、歴史の浅い藤野の発展を"豊かな自然の観光発展"をめざし、「郷土づくり」を着実にすすめた時代があった。
●空沼岳登山コースの開設
昭和2年(1927)ごろ「藤の沢駅―湯の沢―万計沼―真簾沼(まみすぬま)―空沼コース」を開設した。当初藤の沢駅に名所案内板が標示されていた。
●藤の沢スキー場の開設
昭和5年(1930)ごろ、藤野中央部丘陵一帯にスキー場を開設、駅前に歓迎アーチをつくり市民を迎えた。おかげで、家族連れや小中学生のスキー学習など連日にぎわい、昭和30年代まで続いた。
●十五島公園の開設
昭和29(1954)ごろ、観光協会と定山渓鉄道の提携"夏の景勝地"として十五島に公園を開設する。藤の沢駅から豊平川沿いに河畔道路を開削し、炊事遠足のメッカとして市民の訪れも多く、昭和50年(1975)には札幌市の公園となり、年間10万人以上の来園者があり、いっそう市民に親しまれている。
●三豊山(さんぽうざん)の山々は知っている
戦後、生活も落ちついてきた昭和26年(1951)ごろ、下藤野(しもふじの)青年会 <会長 菅信雄(すが・のぶお)氏> を中心に開発の機運がたかまり、焼山(やきやま)登山コースの開発にのり出した。当時焼山の麓に「郵便局修練道場」があり、ここを登山口にして頂上まで約30分のコースを開削した。さらに夢がふくらみ道場横に農業貯水池を兼ねた池にボートを浮かべ、岸辺に千本桜の名所を造成、さらに焼山の頂上と眺望のすばらしい牧場の山をロープウェーで結び、一大レクリエーション構想を計画した。
無名の三山にはそれぞれ山名を工夫した。
下藤野山(スキー場の山)には「豊栄山(ほうえいざん)」。焼山<砕石(さいせき)の山>「豊平山(ほうへいざん)」。牧場の山(ゴルフ場の山)には「豊見山(とよみやま)」。として「藤野三豊山(ふじのさんぽうざん)」を命名したのは小林裕明(こばやし・ひろあき)氏だった。池の試掘など青年会を中心に地元人たち30人が参加し、期待に胸躍らせながらスコップ、ツルハシを振るった。しかし結果は決壊のおそれありと計画は実現されずに終わった。
こうして若者たちが郷土づくりに夢をかけた時代が今はなつかしい。
当時協力者で「藤野三豊山」の命名者だった小林氏は「郷土づくりに燃える若い人達と一緒に活動することは大変素晴らしく楽しい事だった。」と語った。
こうした若者達の郷土にかけた情熱の時代を三豊山の山々はじっと見守ってきたことであろう。
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