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ホーム > 南区の紹介 > 南区開拓夜話 > 極印15.-丸重吾-のむかし

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更新日:2011年2月21日

極印15.-丸重吾-のむかし

■極印15(○付き15)-丸重吾-のむかし

丸重吾

丸重吾

 オカバルシ川の国道橋を"丸重吾橋(まるじゅうごはし)"というが、この呼び名は昭和4年(1929)までの部落名でもある。
 さて、古老の話によると「石狩漁場の親方の屋号で、明治のむかしオカバルシ川流域の伐木に15(○付き15)の極印が押されていた。開拓時代地名がなかったので、誰言うともなくマルジュウゴの沢と呼ぶようになり、文字も"丸十五"から"丸重吾"と部落名になった。」という。
 これこそ江戸時代の石狩場所請負人阿部屋・村山伝兵衛(むらやま・でんべえ)の極印であることが判明した。 江戸時代の村山家は、蝦夷地(えぞち)で活躍した屈指の豪商だった。 初代は能登国羽咋郡阿部屋村(のとこくはくいぐんあべやむら)の出身で、屋号の15(○付き15)は持船を15隻を持ちたいという宿願で名付けたという。代々伝兵衛を襲名し、巨万の富を築き「日本長者鑑」にその名を残した時代もあった。
 最盛期には、35か場所を請負い、所有した船舶も初代が宿願したより遥かに超えて102隻に及んだと伝えられている。
 こうしたなかで競争商人の妬みをうけて財産を没収され失脚の憂き目に会うなど、栄枯盛衰の時代を経て後年、石狩場所請負人となり明治の時代を迎えるが、昔の盛大さを取り戻すことはできなかった。
 こうした時代に、サッポロ山の伐木や、石狩~千歳道路の開削工事などを請負った際に豊平河畔に入り、"船の底板にするカツラ材とか、櫂や櫓の材料に使うヤチダモを伐木し、オカバルシ川が豊平川の合流する辺りに小屋を張り造材したと伝えられている。"
 藤野の小沢広記(こざわ・ひろき)氏は「私の父は村山家の漁場で働いており、追いニシン漁で石狩や厚田まで出稼ぎ行った頃、小船頭に可愛いがってもらい、来年もまた来いよ。」と言われ、また「入植するならマルジュウゴ辺りか厚田がよいと思っていた。」と語っていた。 今は、橋名のみで「マルジュウゴ」のことばはないが、開拓の歴史を辿るうえでたいへん貴重な資料である。


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