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64.開拓農民の手で華々しく|65.手作りの回り舞台で|66.明治から続く伝統行事|67.漂泊の札幌二週間|68."幾山河越え"新琴似へ|69.生き続ける文豪の家|70.北のロマン漂う青春讃歌|71.道内芸術家の第一号
札幌時代の有島武郎
有島武郎の作品は、その秀作の多くが『カインの末裔(えい)』『生まれ出づる悩み』などに見られるように北海道に取材したものである。
そして、彼は『北海道に就(つ)いての印象』というエッセイの中で、「私は前後12年北海道で過ごした。しかも私の生活としては一番大事と思われる時期を、最初の時は19から23までいた。2度目の時は30から37までいた。それだから私の生活は北海道に於ける自然や生活から影響された点が多いに違いないということを思うのだ」と記している。この12年間は、有島が学習院の中等科を卒業して札幌農学校に学び、更に母校の教授となって過ごした時期である。
大正2(1913)年8月、有島武郎が永住を決意して新築した洋館。1階184平方メートル、2階が104平方メートル。
札幌農学校を卒業後、志願入隊、アメリカ留学、訪欧などを終えて有島が再び札幌の地を踏んだのは6年後の明治41(1908)年。東北帝大農科大学に変わった母校で英語を教えるかたわら、2、3年後から本格的な文筆活動に入っていった。
大正2(1913)年8月、彼は永住を決意し、「その家は堤の下の一町歩程もある大きな林檎(りんご)園の中に建ててあった」(『生まれ出づる悩み』=現・白石区菊水西町1丁目)の借家から新築の家に引っ越した。場所は北12条西3丁目(現・北酒販の建物のあるところ)である。
有島自身の設計によるといわれる洋風の家は、現在、北大大学院生の寮として、大学村と呼ばれている東区の北28東4に移されて健在である。(注)
木造2階建て、10の部屋をもっているが、寮となっている現在でも有島にちなんだ名前が各部屋につけられている。1階には、照光、松嶺、遠友、共生、シュヴァネン、ファン―、2階には白樺、星座、泉、残照、小灯と。
「私が25歳のころ、有島邸にはよく御用聞きに行っていました。ある日、缶詰の注文を受けて日本品を届けたら、有島夫人が外国品をと言うんです。英語が読めないと言うとローマ字を習えって勧められましてねえ。ついに毎日、30分ほどローマ字を習う羽目になりました。それにしても、あの家は当時では珍しい水洗式のトイレでハイカラなものでしたね」北12西3、有島邸があった一角に住む上井源蔵さん(91)は遠い昔を懐かしんで語る。
永住を決意して建てたこの家から、妻の病気のために有島が去ったのは大正3(1914)年。
すでに60年余が過ぎた。しかし、建物は今も「有島寮」として生き続けている。
(「広報さっぽろ北区版昭和52年3月号」掲載)
(注)現在、「札幌芸術の森」に移設・保存されている。(平成19年3月加筆)
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