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更新日:2023年1月5日

67.漂泊の札幌二週間-啄木下宿

エピソード・北区

第9章:文化の薫り

64.開拓農民の手で華々しく65.手作りの回り舞台で66.明治から続く伝統行事67.漂泊の札幌二週間68."幾山河越え"新琴似へ69.生き続ける文豪の家70.北のロマン漂う青春讃歌71.道内芸術家の第一号

67.漂泊の札幌二週間

啄木下宿

 

札幌入り翌明治41(1908)年秋の啄木。円内はアマチュア彫刻家葛西茂雄さん(北区在住)の作品「啄木胸像」

札幌の啄木はイガグリ頭だった。来札2カ月前の写真

北7条西4丁目、田中方に仮寓を定む=石川啄木「秋風記」

薄幸の民衆詩人である石川啄木の北海道放浪の生活は一年にも満たない。正確に記すと、明治40(1907)年5月5日から翌年4月24日までの356日間である。うち2週間を札幌で過ごし、苦悩に満ちた青春の日々を送った。
戦後ようやく公開された彼の日記、書簡、小説、さらに生き証人などの記憶を頼りに、啄木の札幌における足どりをたどってみよう。とりわけ北区を舞台にした漂泊の人間ドラマを―。
「半世を放浪の間に送ってきた私には―中略―札幌の二週間ほど、慌しい様な懐かしい記憶を私の心に残した土地(ところ)は無い。」啄木は自伝小説「札幌」でこう追憶している。
函館の大火に追われて札幌入りするのは、秋雨の降る明治40(1907)年9月14日。啄木満21歳。羽織はかまに身を包んだ若き無名詩人は初めて札幌の土を踏んだ。
「午后一時数分札幌停車場に着、向井、松岡二君に迎へられて向井君の宿(北七条西四ノ四田中方)にいたる」(『丁未日誌』より)
翌15日。初めて市中を見学。「札幌は寔(まこと)に美しき北の都なり。初めて見たる我が喜びは何にか例へむ」(『秋風記』より)
16日。函館・苜蓿(ぼくしゅく)社時代からの詩友、向井永太郎と北門新報社(北4西2)の硬派記者小国露堂の尽力で、同社の校正係として出社する。月給15円。勤務時間午後2時から8時まで、という生活が始まった。
さて、啄木の暮らしぶりの詳細は、彼自身が語る日記、書簡、小説、随筆などに譲ろう。私たちの追跡テーマは「札幌区北7条西4丁目4番地、田中方」、すなわち「啄木下宿」の正確な場所であり、そこを中心に広がる彼の"悲しき世界"である。田中サトという未亡人が営む素人下宿で「古い洋風擬(まが)ひの建物」啄木がこう書き残している田中宅、総面積450坪ある「4番地」のどこに在ったのだろう。

北7条郵便局が宿の跡貴重な"最後の証人"

「田中さん、下宿屋をなさっていた田中さんですか。その方なら私の家の隣でしたが・・・」
"生き証人"がついに現れた。檀上勲さん、78歳。今は中央区宮の森にお住まいだ。
「でも田中さんは、確か明治41、2(1908、1909)年ごろ引っ越されたですよ。で、私たち一家は隣から田中宅へ移ったんです。その場所ですか。せがれのいる7条の郵便局ですよ」
こう語る檀上老人は当時10歳。啄木が隣に住み、その"由緒ある家"がのちの我が家だったとは知る由もない。
「檀上」。この苗字は明治41(1908)年の啄木日誌に登場する名だ。
「○向井永太郎氏札幌市区北7条西4の4檀上方」(同日誌)
これは明治41(1908)年、既に東京に居た啄木が、1年前の札幌時代、田中宅に同宿していた友人の向井と賀状交換したことを、日誌に記したものである。これから啄木が住んでいた明治40年当時の家主「田中」は、のち「檀上」に変わっていたと判断がつく。啄木日誌は、「田中さんが引っ越して、そこに私らが住んだ」と語る"檀上証言"の裏付け資料となった。

 

建物右が啄木下宿跡の現北7条郵便局、
局は明治40(1907)年当時、向かいの西5丁目にあった。円内は壇上翁

そして小樽へ

札幌の「啄木下宿」跡!それは檀上老人の記憶どおり、現在の「北7条西4丁目4番地、札幌北7条郵便局」に当たる。宿の建坪は、このほど発見した新資料によると、まさぶき屋根の木造平屋「42.875坪」であった。これらは法務局家屋台帳、他の古老の話なども符合する。
「この六畳間が僕とせつ子と京子の三人の家庭になるのに候」(書簡)。啄木はこの宿を妻子いっしょの生活場所にするはずだったのだが、宿の友と別れの盃を交わし、一人夜汽車で小樽に向かった・・・。
滞在2週間。札幌の啄木に最もゆかりの深いその宿は、昭和7(1932)年、全面改築で面影は消えた。

北の都の啄木恋歌啄木下宿

 

初めて公表される23、4歳ごろの田中ヒサ

札幌はしめやかなる恋の多くありさうなる郷(さと)なり=啄木
悲しき漂泊の詩人・石川啄木が社会主義を激しく論じ、文学において「予が生存の意義なし」と決意を新たにしたのは、この下宿先である。そのかたわら、後になっても「きれぎれと心に浮かんだ」ひとつの"ロマンス"があった。
函館の美人教師・橘智恵子、釧路の芸者・小奴のことは有名だが、札幌の女性との交流は、啄木ファンにもほとんど知られていない。

明治の秋の慕情遠く

結局、この話は実現しないまま終わったが「確かに、将来の進展を想像されるものがあった…。同宿の若人たちの後にうわさ話にも上った程である」と同じ宿の友人・向井永太郎の遺稿は語る。
「アカシアの並木にポプラに秋の風吹く」明治40(1907)年、今日の"北区札幌"を舞台にした啄木慕情の一端である。

(「広報さっぽろ北区版昭和50年11月、12月号・51年1月号」掲載)

田中ヒサ=香川県出身の父薫太郎と母サトの長女として、明治22(1889)年生まれる。
明治40(1907)年北星女学校を卒業。啄木がヒサの家に下宿するのはこの年の秋。明治41(1908)年、新琴似尋常高等小学校の代用教員(月俸12円)になるが、明治42(1909)年同校を退き朝鮮元山府に行く。大正2(1913)年5月5日、啄木の妻・節子は「死にますからみなさんさようなら」の言葉を最後に、啄木同様恵まれることのない薄幸生涯を函館で閉じた。同年同月の全く同じ日、ヒサは朝鮮の地で空知郡滝川村(現滝川市)出身、医師・有川藤次郎に嫁ぎ、間もなく長女・通(みち)を産んだ。病弱なヒサは大正9(1920)年、32歳の生涯を朝鮮釜山の地で閉じている。

※北7条郵便局は現在、北7西6北苑ビルに移転している。
(平成20年3月加筆)

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