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更新日:2023年1月5日

64.開拓農民の手で華々しく-新琴似歌舞伎

エピソード・北区

第9章:文化の薫り

64.開拓農民の手で華々しく65.手作りの回り舞台で66.明治から続く伝統行事67.漂泊の札幌二週間68.幾山河越え"新琴似へ69.生き続ける文豪の家70.北のロマン漂う青春讃歌71.道内芸術家の第一号

64.開拓農民の手で華々しく

新琴似歌舞伎

 

晩年近く、ありし日の田中松次郎

開拓当時、新琴似の農村青年を中心にして歌舞伎が華々しく演じられていた。最盛期には、道内の農民芸能史でも珍しい常設劇場・若松館が建設され、同時代に存在していた篠路歌舞伎と並んで、貴重な北区の農民文化史となっている。
今残っている数少ない資料を総合すると、新琴似歌舞伎が同村で産声をあげたのは明治30(1897)年ころで、それから20年後の大正5(1916)年まで繰り広げられている。担い手は、鳥取県から開拓農民としてやってきた、座長格の田中松次郎をはじめ山本長三郎、原銀四郎、村田勇、八田常作らであった。
当初は新琴似地神社境内で上演。これが村民に与えた慰安はまことに大きなものだった。
観覧は無料で、いわゆる「花」といった寄付で経費を賄い、収支は結構成り立っていた。
芸名松楽を名乗りはじめていた田中松次郎は、歌舞伎、義太夫の伝統芸能を新琴似の地に実らせようとの心意気で、劇場若松館を建設した。彼の私財の大半はこれに注ぎこまれた。札幌警察署長あての「劇場開設願」によると、明治43(1910)年12月のことである。
建設場所は札幌郡琴似村大字琴似字新琴似番外地。現在の北区新琴似7条1丁目である。館内には、特設舞台、花道、見物席のほか、楽屋、警察官席、便所を完備。収容能力は310人で、村人口の半数が賄えた。
こけら落とし興行には、手稲村軽川の歌舞伎役者中村亀之助一座を招き、村中に若松館の名をとどろかせた。大人10銭、子供5銭の入場料をとり、特別興行のときは倍額のこともあった。通常は、週に一度ほど夕刻に開館。
歌舞伎のほかに義太夫、浄瑠璃なども行われ、娯楽の殿堂となっていった。
最盛期を迎えた新琴似歌舞伎には、農村青年たちに交じって屯田兵2世も加わって50人近くの大所帯になり、「太閤記十段目」「神霊矢口渡」など出し物に磨きがかけられた。
活況の若松館に気をよくした松次郎は一座を編成して、遠く幌向、岩見沢方面へと地方巡業にも乗り出し、客足が悪いときは、たいそうボヤいていたという。
「父松次郎は芝居が3度の食事より好きでした。畑仕事はもっぱら家族や東北の“デメントリ”に任せっきりで歌舞伎に熱中してました」長女・柏倉ハツエさん(74)。「若松館には、のぼりやちょうちんがいっぱい飾ってありそれはにぎやかなものでした」前村ブンさん(75)。「松さんは5尺そこそこの小柄な人だったが、舞台に立つと大きく見えたもんだ」野間森男さん(85)等々。
新琴似の古老の思い出は、いまも尽きない。
一世を風びした新琴似歌舞伎の立て役者、松次郎は昭和37(1962)年、86歳でこの世を去った。

(「広報さっぽろ北区版昭和49年11月号」掲載)

手探りの復活


平成8(1996)年「新琴似歌舞伎復活公演」での「白浪五人男」の一場面


「新琴似歌舞伎講座」で中学生に指導する伝承会のメンバーたち

新琴似4番通沿いに、地域の人々が集う市民活動拠点としてプラザ新琴似が完成したのは平成5(1993)年4月。それを契機に、地域の人たちによる町おこしの話し合いが持たれた。その中で、かつて新琴似で農業青年による歌舞伎が盛大に行われていたという話題が出たことから、地域を挙げて歌舞伎の復活に向けて活動していくことになる。そして同年7月、新琴似歌舞伎伝承会(当時武田良夫(たけだよしお)会長)が設立された。
「皆が歌舞伎やその仕来たりをよく知っていたら、復活に取り組むのをためらったかもしれません。知らなかったのが幸いだったと思います。歌舞伎に詳しい人を探し、どう進めていくかなど、今まで誰も経験したことがないので、本当に手探り状態の活動が続きました」と、同会事務局長の宮崎義晴(みやざきよしはる)さんはそのころのことを話す。
同年、歌舞伎の伝承に取り組む新琴似歌舞伎伝承会・篠路歌舞伎保存会、それに町内会、区役所など10団体が実行委員会を結成し、国立劇場歌舞伎研究所「稚魚の会」歌舞伎鑑賞教室を開催。参加した延べ約1万人の地域の人々が歌舞伎の魅力に触れた。このような、区と地域の取り組みが新琴似歌舞伎の復活へ向けての後押しとなっていった。また、麻生地区で能の伝承と普及に取り組んでいる照井武(てるいたけし)さんに会の相談役を引き受けてもらい、また照井さんの紹介から書家で歌舞伎に精通していた島田無響(しまだむきょう)先生に演技指導をお願いすることができた。
活動が本格化する中、どの演目を演じるかという話になった。「いろいろな案がでましたが、みんなが良く知っている演目で、出演者全員にせりふがある方が良いということで、白浪五人男(しらなみごにんおとこ)の“稲瀬川勢揃(いなせがわせいぞろ)いの場”と“浜松屋の場”となりました」と宮崎さん。公演に向け、のぼりやはんてんなどの小物は何とか買いそろえたが、衣装などは借りることに。そのほかにも歌舞伎には照明や大・小道具など舞台運営に関する多大な資金が必要であり、資金集めにも奔走した。北海道からの補助金のほかは地域の人たちや企業からの寄付金が寄せられるなど、地域ぐるみの協力で、やっと復活公演を開くことができるようになった。
しかし、主役の五人男の配役は早くに決まったものの他の2、3の役を演じる人が決まらず、すべての配役が決まったのは公演の約4カ月前。役者となった地域の人々は、それぞれ仕事を持ちながら、生まれて初めての歌舞伎のけいこを行った。歌舞伎のビデオを見て自習したり、せりふを録音したテープを持ち帰り家で練習したりと、慣れない言葉に悪戦苦闘を繰り返したそうだ。
そして平成8(1996)年3月2日、復活公演の日を迎えた。会場はたくさんの人で埋まり、舞台と観客が一体となって盛り上がった。初舞台を演じ終えた後に花束を受け取った時の感激は、演じた人たちの忘れられない思い出となり、この日は新琴似地域にとって歌舞伎が鮮やかに復活した記念すべき日となった。
当日の舞台裏のエピソードがある。顔師と呼ばれる化粧の専門家に舞台化粧を全員分まとめて依頼していたが、舞台化粧は演じる人それぞれがお願いするのが仕来たりであることを後で知ったとか。「その化粧を落とすのは自分たち自身で行うということも、公演が始まる直前に知ったんです。慌てて女性スタッフに化粧落としのクリームを買いに走ってもらい、事なきを得たんですよ」と宮崎さんは笑う。
「これからは、復活した歌舞伎を後世に伝えていくことが課題。まずは、若い人たちに歌舞伎を知ってもらいたい」と宮崎さん。平成14(2002)年10月には、新琴似歌舞伎講座を開催し、新琴似中学校の生徒がけいこを見学。実際に生徒たちが舞台衣装を身に付けて見得(え)を切る指導を受け、大変な好評を博した。
手探りで始まった新琴似歌舞伎の復活。80年前の興奮を地域によみがえらせ、そして再び生まれた歌舞伎文化は、また次の世代に引き継がれようとしている。

(「新・北区エピソード史(平成15年3月発行)」掲載)

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