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58.篠路の野に点在|59.道内馬産史に異彩を放つ|60.篠路の野に脈打つ山岳信仰|61.いまに息づく大師講|62.北区に集中する五角柱|63.世界初の人工雪
路傍にひっそりと=篠路町拓北の「仙人庚申塚」
篠路町拓北の道ばたに、ちっちゃな石像が雑草に見え隠れして建っていた。正確な場所は、ペケレット湖園前の通りを東へ700メートルほど進んだ辺りである。自然石に彫り込まれた像は、ところどころ欠けていて、いかにもみすぼらしそう。
高さはわずか1メートル余り。石像は「役行者(えんのぎょうじゃ)」を表し、右手に錫杖(しゃくじょう)(ツエ)、左手に金剛杵(こんごうしょ)(キネ)を持つ。役行者は山岳信仰の開祖と言われる。そういえば、この石像の台座はなだらかな山を表し、上の方は険しい山の頂を型どっているようだ。法衣をまとった行者は、山伏よりもむしろ仙人の風ぼう。どうして、山岳信仰のシンボル像が篠路の平原に建てられたものだろうか。
地元の古老は、この仙人像を「庚申(こうしん)さん」と呼ぶ。確かにこれはその昔、庶民の生活のよりどころに、「内地」では江戸期から盛んに建てられた「庚申塚」の一種に違いない。
仙人庚申塚が建ったのは明治28(1895)年。この地区の人々の間に弘法大師講という庶民信仰が起こったのも明治28(1895)年であれば、これまた鴻城小の前身とも考える寺子屋の教育場が建ったのも全く同年である。「明治28(1895)年という数字は決して偶然ではない。庚申さん建立の意味もこの数字で解けるような気がするんです」こう話すのは塚の近くに住む柳沢正幸さん(60)だ。つまり、寺子屋に通う村の子供の安全を願い通学路に庚申塚を建てた。建てたのは大師講の信者たちとの推論である。
同じく塚の近くの久米一男さん(70)は「昔、庚申のあるあたりには白い姿の幽霊が出たと親から聞かされた」と言うのだが、役行者は悪魔を払う呪術者でもあった。さらに仙人像の下の台座石には「見ざる言わざる聞かざる」の三猿が彫ってある。これは悪い噂に関わらず三猿主義を守って、何事もつつしみ深くあらねばならぬという庚申信仰の教えでもあった。
篠路町拓北一体は主として徳島県人による開墾地帯である。このことに触れて庚申塚研究家の会田金吾さんは「徳島県は石像造りも、山岳信仰も盛んな所。開拓が軌道に乗りひと息ついたので、徳島出身者がふるさとを思いつつ篠路に土着するんだという証に、庚申塚を建てたものと思う。私が知る範囲では道内の仙人像は篠路だけ。極めて貴重です。」
(「広報さっぽろ北区版昭和51年8月号」掲載)
※昭和60(1985)年、造成工事に伴い約10メートル南西のところに移設されている。
(平成19年3月加筆)
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